わがまち

52年前のオリンピック

きょうの清水

台風の影響だろうか、朝晩に秋の気配を感じるようになった。それを待ってたかのようにスズムシの大合唱が始まった。それまでは一匹が鳴き終えると次が鳴くというソロだったのが、数匹が覇を競うかのように同時に鳴き出した。合唱というより悲鳴のようだ。

1964年10月。52年前の東京五輪は小学6年生だった。家庭にテレビが普及し始めていた頃で我が家にも14インチのテレビがあった。もちろん白黒。1インチ1万円と言われていたから、高価な買い物だったはずだ。

袖師小学校は、1961年「昭和の大合併」で庵原郡袖師町が清水市に編入され、町立から市立となった。清水市に吸収される時、当時としては豊かだった町財産を小学校の校舎建替につぎ込んだという。(古老から聞いた話で確証はない)

完成した新校舎は、日本一の学校としてテレビでも紹介された。昭和30年代に、6クラスが一緒に給食を食べられる食堂があり、2階と3階には給食配膳用エレベーターがあり、体育館も兼ねた講堂はテレビ局のようなインカムで子ども達が連絡を取り合えた。全教室にテレビが置かれ、本館に作られたスタジオから番組が放送された。6年生の放送委員は花形役職だった。(私も応募したが落選した)
テレビは親子式で、教室の子機にはチューナーが付いていないのだが、それを知らない泥棒が教室に入りテレビが盗まれる事件もあった。

きょうの清水

左端はメス、中央のオスが鳴き始めると、右端からオスが近づいてきた。オス同士のにらみ合いがしばらく続いた。

女子バレー、マラソンなど人気種目は教室のテレビで見ていたと思う。今のような派手な応援はなかったが、興奮して画面を見ていた。大会後に出版されたグラフ誌の別冊を暇さえあればページをめくっていた。1964年の東京大会では欧米による植民地支配から独立したばかりのアジア・アフリカ国々が少人数の選手団で初出場していた。カラー印刷のグラフ誌で見る鮮やかな民族衣装は「平和の祭典」の象徴に思えた。

きょうの清水

スズムシの飼育は4年目に。昨年までは泊まり板(バルサ)とえさ台だけだったが、今年は隠れ場所をいくつも作った。エサは我が家の軒下畑で家人が栽培しているナスを頂戴し、鰹節(写真はイワシ削り)を添えている。ナスは表面積が大きくなるようにカット。同じ皿を2つ置いている。いろいろ試してみたが、この組合せが一番いいみたいだ。

東京五輪に合わせて新幹線が開通し清水も大きく変わった。東名高速の工事は高校に入ってからで、中学3年になったばかりの頃、部活(その頃はクラブ活動)で土曜午後の練習は、山原山までのランニングをよくやった。清水インターのあたりは畑で、最短距離を走ることができた。
怖い上級生がいなくなった気楽さで、走るのは山頂までにして、帰りはのんびり歩いた。レンゲが咲いている頃には、下級生に命令して全員でレンゲの花飾りを作ったこともあった。その飾りを付けたまま学校に戻ったかどうかの記憶にないが、のどかな時代だった。

きょうの清水

脱皮したばかりで、伸びていない羽が白い。やっと大人になった。

4年後の東京五輪は8月に開催されるという。猛暑のなかでの大会である。もちろんテレビ桟敷での応援になるが、4年後の姿を想像するのが難しい。自分もそうだが、世の中変化が見えづらい。

きょうの清水

ドリプラ(エスパルス・ドリームプラザ)の連絡通路から南を望む。右側の建物は鈴与本社。これから話題の映画「シン ゴジラ」を見に行く。

2016-08-20 | Posted in わがまち8 Comments » 

コメント8件

 today

みなさま、お待たせしました。夏の続きが正月になりましたが、更新しました。
正月の次が鈴虫のふ化にならないよう、心がけますので、よろしくお願いします。
また、久し振りに更新画面を開いたら、WordPressがバージョンアップされました。セキュリティ対策が強化されたのか、コメントを送るために「4文字暗号」を入れる手間が増えました。
それから古い記事の写真が当方の事情で表示されていません。画像は消えませんので順次、再構築します。遅ればせながらの大掃除みたいなものです。

 清波

ふるさとの話を聞かせてください

 下新庄3丁目

秋の記事が無いうちに冬になりそうですが、次の記事はいつでしょ?

 

なおきさん

袖師が潤っていたという話は何人かの古老から聞いたことがあります。
とはいえ、近所のおやじさんですから、資料に基づく見識というものではなかったと思います。そして、その人たちはすべて鬼籍に入りましたので、確かめようがありません。
そんな話をする人もいたということで、ご理解下さい。

島屋文 さん

興津川の河口近くに、ボーリング場がありましたね。今は、山梨の企業が経営している健康ランドが賑わっています。(先月、袖師の同窓会を、ここの展望レストラン貸切でやりました)
確かに、清水駅前は大規模な工事が進んでいますが、わくわく感はありませんね。これも時代の流れなのでしょうか…。

 島屋文

1964年より時代は下がりますが1970年代後半、小学生の頃興津川河口当たりに住んでおりまして一号線バイパスの工事をよく見ていた記憶があります。国道52号線の起点のあたりです。最近の新東名の工事などと比べ工法や機械の進歩によるものでしょうが当時はかなりスローペースな作業であったように思いますが作業される方の存在感や道ができることにより数100メートルですが住居が移動した友達などがいて子供ながらに新しい時代が来るようなただならぬ雰囲気を感じました。最近は清水駅前の変化もめまぐるしいものがありますが当時の熱気みたいなものはなぜか感じられません。

 なおき

冬眠ならぬ永い夏眠に入ったのだとばかり思っていました。合併前の町の財源が豊かだったとのことですが、どのような産業で潤っていたのですか。明治維新から昭和初期ころの文献などを読んでいると、旅行者が宿をとるのは清水(江尻)ではなく袖師のことが多いように思えます。私にとっての袖師近辺の知識といえば、<薩埵峠><桜海老><国道52号線の起点>くらいのものなのでご教授ください。

 

お待たせしました。
スズムシのような、ひたむきな努力が必要ですね…^^;

 島屋文

久しぶりの投稿ですね。心待ちにしていました。

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