2016-08-20

52年前のオリンピック

きょうの清水

台風の影響だろうか、朝晩に秋の気配を感じるようになった。それを待ってたかのようにスズムシの大合唱が始まった。それまでは一匹が鳴き終えると次が鳴くというソロだったのが、数匹が覇を競うかのように同時に鳴き出した。合唱というより悲鳴のようだ。

1964年10月。52年前の東京五輪は小学6年生だった。家庭にテレビが普及し始めていた頃で我が家にも14インチのテレビがあった。もちろん白黒。1インチ1万円と言われていたから、高価な買い物だったはずだ。

袖師小学校は、1961年「昭和の大合併」で庵原郡袖師町が清水市に編入され、町立から市立となった。清水市に吸収される時、当時としては豊かだった町財産を小学校の校舎建替につぎ込んだという。(古老から聞いた話で確証はない)

完成した新校舎は、日本一の学校としてテレビでも紹介された。昭和30年代に、6クラスが一緒に給食を食べられる食堂があり、2階と3階には給食配膳用エレベーターがあり、体育館も兼ねた講堂はテレビ局のようなインカムで子ども達が連絡を取り合えた。全教室にテレビが置かれ、本館に作られたスタジオから番組が放送された。6年生の放送委員は花形役職だった。(私も応募したが落選した)
テレビは親子式で、教室の子機にはチューナーが付いていないのだが、それを知らない泥棒が教室に入りテレビが盗まれる事件もあった。

きょうの清水

左端はメス、中央のオスが鳴き始めると、右端からオスが近づいてきた。オス同士のにらみ合いがしばらく続いた。

女子バレー、マラソンなど人気種目は教室のテレビで見ていたと思う。今のような派手な応援はなかったが、興奮して画面を見ていた。大会後に出版されたグラフ誌の別冊を暇さえあればページをめくっていた。1964年の東京大会では欧米による植民地支配から独立したばかりのアジア・アフリカ国々が少人数の選手団で初出場していた。カラー印刷のグラフ誌で見る鮮やかな民族衣装は「平和の祭典」の象徴に思えた。

きょうの清水

スズムシの飼育は4年目に。昨年までは泊まり板(バルサ)とえさ台だけだったが、今年は隠れ場所をいくつも作った。エサは我が家の軒下畑で家人が栽培しているナスを頂戴し、鰹節(写真はイワシ削り)を添えている。ナスは表面積が大きくなるようにカット。同じ皿を2つ置いている。いろいろ試してみたが、この組合せが一番いいみたいだ。

東京五輪に合わせて新幹線が開通し清水も大きく変わった。東名高速の工事は高校に入ってからで、中学3年になったばかりの頃、部活(その頃はクラブ活動)で土曜午後の練習は、山原山までのランニングをよくやった。清水インターのあたりは畑で、最短距離を走ることができた。
怖い上級生がいなくなった気楽さで、走るのは山頂までにして、帰りはのんびり歩いた。レンゲが咲いている頃には、下級生に命令して全員でレンゲの花飾りを作ったこともあった。その飾りを付けたまま学校に戻ったかどうかの記憶にないが、のどかな時代だった。

きょうの清水

脱皮したばかりで、伸びていない羽が白い。やっと大人になった。

4年後の東京五輪は8月に開催されるという。猛暑のなかでの大会である。もちろんテレビ桟敷での応援になるが、4年後の姿を想像するのが難しい。自分もそうだが、世の中変化が見えづらい。

きょうの清水

ドリプラ(エスパルス・ドリームプラザ)の連絡通路から南を望む。右側の建物は鈴与本社。これから話題の映画「シン ゴジラ」を見に行く。

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