(13)一葉松

庵原川の下流に架かる「一葉橋」で、日本平を背に正面を見上げると、前方に大きな松の木が見える。これが、袖師ふるさとの路13番の「一葉松」(ひとはまつ)である。

松の葉は二つに分かれているが、この松は一葉しかない。
今は、老松がわずかに残っているだけだが、かつては「袖師ヶ浦の一葉松」と呼ばれ、松林が続いていたという。
袖師の一葉松には伝説がある。
治承4年(1180)信濃に兵を挙げた木曽義仲は、息子の清水冠者義高を源頼朝との和解のため人質として鎌倉へ送った。義仲は、京都に攻め上り征夷大将軍に任じられたが、寿永3年(1184)源範頼、義経に栗津原で討たれ、人質の義高も入間川原で斬られた。
義高には幼少からの許嫁がいた。その名を、鶴姫という。公家の娘だった。鶴姫の家は、平治の乱で源氏に味方したため京を追われたが、義仲の上洛で鶴姫も京都に戻ることができた。しかし、鶴姫は義高を慕って東へ向かった。
袖師ヶ浦まで来たときに旅の疲れと病から、浄見長者の門前で倒れた。不憫に思った長者が静養させるなか、義高の悲報が伝わる。悲しみにくれた鶴姫は袖師ヶ浦に身を投げた。
【鶴姫が残した辞世の歌】
心なき松も二葉に散るものをなどてかひとり住み残るべき
別れてもまためぐり来る春ごとに松の操を想ひおこせよ
鶴姫を悲しみ、袖師ヶ浦の松は一葉になったという。
かつで海水浴場があった時代、ここには三保のような松並木があった。袖師ヶ浦の名前が忘れられたように、松並木の記憶も薄れた。
残された「一葉松」は記憶を呼び戻す糸口のようなものかもしれない。

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「(13)一葉松」へ届いたコメント
村松さん、コメントありがとうございます。管理人の磯谷です。
村松治平さんは、「袖師町誌」編纂委員にお名前がありますね。
袖師船溜まりの辺りの景色もすっかり変わって、昔の面影がなくなりました。
これからも、袖師の姿を紹介するつもりですので、ときどき覗いてみてください。
磯谷 | 2007年09月05日
何十年も前、私の記憶にあるかないかの頃、私の祖父治平が、一葉の松の碑を建立した記憶があり、懐かしく思っています。
袖師で育ち今は横浜におりますが、いまだに袖師のことが懐かしく思っています。
先日、どうしても一度訪れてみたかった、島根県松江市の宍道湖畔にある、袖師ヶ浦を訪ねてきました。
宍道湖の袖師ヶ浦で見れる夕日の景色は絶景だと言われております。
また袖師窯という焼き物もあります。
村松 | 2007年09月05日
僕は仕事に行くのに港湾道路を使います。
信号も少なく、両河内から駒越に行くのに非常に便利です。
でも、興津~袖師付近が港湾道路が出来る前の海岸のままだったら、会社まで行くのに時間は倍以上かかったかもしれません。しかし、海岸のままなら絶好の行楽地になっていたのではないでしょうか?
港湾道路という商業道路が出来た事によって、海岸が失われた事は果たして良かったのかどうか?
港湾道路の恩恵を預かっている僕としては微妙なところです。
MARUMA | 2006年03月13日
袖師町誌には、町名の由来となった「袖師ヶ浦」は1086年に出された後拾違集のなかで藤原国房が「から衣袖師ヶ浦のうつせ貝むなしき恋に年のへぬらん」と詠んだと書かれています。また、伊勢や出雲など各地にあるとも書かれてますので、いろいろな所にあるということなんでしょうね。
さて、土地勘がないと、地名や写真を見ても、それがどの場所なのかよく判らないものです。地図でお馴染みのアルプス社からMovableType用のプラグインが公開されましたので、さっそく使ってみました。
この地図はすべて上が北になっていますのでご安心下さい。
磯波 | 2006年03月13日
最近知ったことですが、千葉県の袖ヶ浦市、習志野市の町名の袖ヶ浦、これらはみな清水の袖師と同じで、もとは「袖師ヶ浦」ということらしいです。
またかつては大森海岸や横浜あたりの景勝地にもこの名が付けられていたということです。
つまり、江戸周辺の海岸の景勝地等に名付けられた地形由来の地名ということらしいです。
「袖師」自体の語源は分らないのですが、清水の「袖師ヶ浦」にあやかって名付けられたのかな(どちらが先に名付けられたのかも分りませんが)なんて思ったりします。
あおい君 | 2006年03月12日
「いちよう」ではなく「ひとは」と読むでしたか。ありがとうございます。やはり由来はあるのですね。
古くから残る地名や名のある道(路)、坂などには「後世まで大切にせよ」という前人たちのメッセージが込められています。
由来や歴史を知り良きものは残して次代につなげてゆく事も今に生きるわれわれの役目ですね。
イチゴ狩りの季節で書き入れ時の久能海岸。そこに「増」がありますが、この「増村」の発祥は市立病院の奥を上った冷川の水源あたりと伝えられその地は現在も宮加三と複雑に絡み合い「増」の飛地としてあります。
増村の名の由来は木曽義仲の家臣である増村左衛門尉行直の苗字から用いたもので、行直は義仲の嫡男清水冠者義高が人質となって伊豆に送られる際に同行していたのだが、清水冠者が頼朝に殺されたので、行直は清水の冷川奥に逃げのび隠れて住んだという。
やがてその子孫が承久年間に移り住んだ地が現在の「増」地区であるとつたえられているそうです。(参考:不二見のあゆみ)
清水冠者で思い出しましたので書き込んでみました。
八葉松 | 2006年03月12日