≪ 黒鉄ヒロシの次郎長 | きょうの清水 | 江戸時代の清水 ≫

2006年06月27日 次郎長

庵原川の仲裁

庵原川の仲裁

「庵原川仲裁」を説明する絵(清水次郎長菩提寺、梅蔭寺境内にある次郎長遺物館)

NHK木曜時代劇「清水次郎長・背負い富士」は29日放送の第三回目で「庵原川の仲裁」が登場する。

喧嘩の仲裁は、侠客の度量を天下に知らしめる絶好の機会と言われた。この仲裁の成功で、次郎長の名声が定まった。

1845年(弘化2年)甲州津向(つむぎ)の文吉と、駿州和田島の太左衛門が庵原川で決闘を行う場に、単身乗り込んだ次郎長は、この喧嘩を仲裁し、文吉と太左衛門は刃を収めた。

黒鉄ヒロシの「清水の次郎長」では、こう描かれる。

次郎長は、抗争の原因は三馬政(さんばまさ)の仕業と訴えた。当の三馬政は濡れ衣とお上に訴え、次郎長にも捕吏の追手が迫る。仲裁の後、次郎長は太左衛門の乾分である、虎三、直吉、千代松と箱根を目指して逃げた。太左衛門は次郎長の叔父貴分だった。

箱根に逃亡している間に、庵原川仲裁の評判が世間に広まり、侠客としての次郎長の評価が決定的になった。喧嘩の原因らしきものもあるのだが、本当の所は判らない。

三馬政が濡れ衣というより、「気合いの国に住んでいる」アウトローには、世間の規範や常識は通じない。互いの利害と思惑を、何手も先まで読みあって、やらないという合意が出来たのだろう。

庵原川の仲裁

現在の庵原川。神明川との合流地点から下流を見ている。「仲裁」がどこで行われたのか定かではない。当時も今も、川幅には大きな違いはないと思われるが、護岸の様子は違っていただろう。写真右側に、治水のための造られたコンクリートの護岸と桜並木が見える。

次郎長翁を知る会の年表によれば、

役人に追われた次郎長は、箱根に隠れた。そして、小田原の佐太郎家に滞在した後、武州高荻の万次郎の客となる。さらに、吉良武一の招きで三河に向かう。

三州の吉良武一は、次郎長が23才の時、北矢部の賭場での喧嘩から清水を棄て、侠客としての道を歩きはじめた時、客人として剣術の腕を磨いて貰った親分だ。

吉良武一へ、3年ぶりに戻った次郎長だったが、賭博の罪で、三州赤坂の獄に入った。出獄し、清水に戻るのは翌年の夏である。

その翌年、江尻大熊の妹、おてふを娶り、仲町妙慶寺の近くに住まいを構えた。一代目のお蝶である。

「名声日に日に高く、常に数十人の客があって貧乏暮らしに終始した」と次郎長翁を知る会の年表は書いている。この時、次郎長28才であった。

清水の次郎長

梅蔭寺にある次郎長の像。梅蔭寺は通称で、梅蔭禅寺が正式名である

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「きょうの清水」へ届いたコメント

確かに和田島には上田姓の家が何件か有ります。
僕の同級生の姓も上田です。
今度会った時に聞いてみたいと思います。

和田島の太左右衛門は本名を上田竹次郎。
上田家は和田島の名主。竹次郎はその息子で、紺屋町の元庄屋の養子となり、武芸に覚えのある竹次郎はそこに一家をかまえました。
叔父貴分として次郎長の面倒をよく見たようで、幕末維新ころには太左右衛門の敷地に次郎長の剣術道場があったと地元で伝えられているそうです。

ちょっとした手がかりがあるサイトをみつけました。上田は「うえだ」だが正式には「かみだ」というそうです。
http://www.geocities.jp/bqwxr271/meibo/wadazima.htm


→MARUMA さん、なにかわかりますか

和田島の太左衛門は、名前の通り和田島の出身で、次郎長の叔父貴分にあたる人物です。次郎長が清水一家と呼ばれたように、江尻にあった太左衛門一家にも屋号のような呼び名があったと思うのですが、それは不明です。

木曜日のNHKドラマで庵原川の仲裁が、どんな風に描かれるのか、楽しみです。

和田島の太左右衛門って、両河内地区の地区名の和田島と何か関係があるんでしょうか?

うわっびっくりした~!
急にバイエンジの銅像があらわれるもんで...。
この銅像も2代目なんですって。古老によれば、「二代目は迫力はあるが一代目の方が似ていた」と古々老が言っていたそうな。

和田島太左衛門は江尻の紺屋町に一家を構え、問屋場にいた大熊の誘いで次郎長はわらじを脱いでいた。
「東海遊侠伝」に沿えば、「津向一家は三十余人を率いて沖津(興津)に在り今夜、和田島と雌雄を庵原川に決せんとす」とある。
江尻と興津を結ぶ道は東海道。庵原川橋の袂の川原がその決闘の場所となるはずだったが、現場には次郎長と弁慶の重蔵の2人のみで乗り込み、文吉と対峙した次郎長が、「これは三馬政の仕組んだ言いがかりで和田島には敵意は無い」ということを伝え、誤解を解いたうえで文吉から度胸と器量をたたえられた。ついには血はおろか刃も交わすことなく文吉一家は甲州に引き返していった。

庵原川橋に立って庵原川を見ると、たしかに向かい合って話し合いができる川幅でもある。
大親分のデビュー場所はスケールが小さい川だけえが、これから一家を構え勢力を伸ばすに連れて喧嘩場の川の幅も広がってゆくんです。

どんどん強くなってゆく「清水の次郎長」。ストーリーの今後もわくわくしますね(笑)。

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