郷土の所領

茂野島は道路の両側に田圃が広がる。霧雨のなか、案山子がこちらを見つめていた。
国道52号線を興津から北に向かい、但沼の信号を左折し、興津川に沿って谷間の道路を西に進むと、巨大な徳利型の水道施設が見える。清地(きよじ)水源場である。道なりに直進すると中河内へ、左折して高瀬橋を渡り、興津川に沿って進むと和田島に出る。
和田島小や両河内公民館を過ぎ、茂野島へ入ると道路の両側に黄金色の田圃が広がっていた。
茂野島から、北に向かって続く道路を進むと、西里、河内、大平に出る。
江戸時代、この辺りで作られた炭や和紙は駿府城に運ばれたという。

上の図は「我が郷土 清水」に掲載されている幕末の所領地区分である。西端にある「炭焼」は現在の西里で、河内、大平までが幕府直轄の天領となっている。
図の右側は清水南部の拡大図だ。
清水南部での天領は、東海道と清水港周辺である。宿場や港と同じように、炭と和紙の供給地が重要だったということが判る。
小島、吉原、小河内、中河内などは小島藩の領地だった。城主は三河出身で松平を名乗り、廃藩置県となるまで14代続いた一万石の殿様だった。
小島は東海道と甲州街道の両方を押さえることができる戦略的に重要な場所であり、徳川幕府にとって、甲州の武田氏を押さえるために、徳川家の身内とも言える三河出身の松平氏を置く必要があった。徳川は武田氏への警戒を最後まで解かなかったのだ。
「清水市年表」を見ると、1870年(明治3)に小島に静岡藩小学校ができ、英語、修身、習字、体操などの学科があったと記されている。清水本町に小学校が作られたのは、小島小学校の翌年である。
1868年(明治元年)5月、駿河の天領や小島藩など諸藩はすべて統合され駿府藩(70万石)が設置され、徳川慶喜が入った。その3年後の1871年に実施された廃藩置県で徳川政権下の行政組織は解体された。
次郎長が存命していた時代、小島藩や両河内の天領は清水のなかで特別な存在だったのだろう。

和田島に入ると第二東名の巨大な橋脚が頭上を走る。山を抜けるというより、山頂をつないでいるような高さだ。新しい橋脚の近くに「清水港300m先」という案内表示がいくつも出ている。清水港方面に続く新しい道路の案内である。清水方面や清水市街地ではなく「清水港」というのが、簡潔明瞭、単刀直入で嬉しい。
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「きょうの清水」へ届いたコメント
高橋さん、コメントありがとうございます。
清水で大きく変わったはいろいろありますが、第二東名の工事は凄いですね。和田島のとっくり辺りの景色の変貌ぶりは驚きます。
それから、折戸の南高裏の海岸も。浸食で海岸が消え、堤防に波が打ち寄せてます。昔は、100メートルぐらいあった海岸が消えてしまいました。
これからも、思いつくまま気の向くままに、清水の景色を記録してゆくつもりです。
磯 | 2006年09月17日
第二東名の工事中一度だけこの場所を見た事ありますが
もうこんなに出来ているんですね。綺麗な写真見ることできました
高橋美智代 | 2006年09月17日