≪ 巴川の枝垂れ梅 | 最初のページ | 昇太の清水青春グラフィティ ≫

2007年02月10日 折戸

折戸の海岸

0702orido-umi1.jpg

久し振りに折戸の浜に来た。

湾岸道路の巴川を越え、南に進む。駒越の三叉路を左に曲がり三保へ向かう。最初の信号を右折し、狭い坂道を登る。バス停なら西折戸だ。左に見える清水南高のグランドを過ぎると、道はさらに狭くなり目の前に駿河湾が広がる。

高校生の頃の記憶では、コンクリートの堰堤から波打ち際まで100メートルぐらいあった。浜を走るマラソンでは、700人はいたと思われる全校の男子生徒が一列に並んでスタートできる広さがあった。

海岸の浸食は70年代から始っているらしい。気がつかなかったが、マラソンを走っていた頃にも浜の縮小は始っていた。

友人から「行ったら驚くぞ」と教えて貰らい、この場所に来たときは大袈裟でなく絶句した。今はテトラポットが置かれ、浜が少し残っているが、15年ほど前は堤防の下を波が洗っていた。浜が絶滅していたのだ。

その時から比べたら、浸食を止める努力は成果を上げているように思える。

0702orido-umi2.jpg

浸食は自然の摂理なのだが、その原因となったのは安倍川の砂利採取だという。

高度成長の頃、大量の砂利が安倍川から都会へ運ばれビルや道路が造られた。湾に突き出た砂洲は砂利の供給が減り、次第に痩せてゆく、まず久能の浜が消え、150号線の安全確保のため大量のテトラポットが置かれる。三保への砂利供給はますます減って、浸食が加速されたということらしい。

高度成長を河川の砂利が支え、その代償として浜が消え始めている。清水に限らず、全国で起こっている事態だ。

仕事を求めて人が都会に流れ、田舎が寂れていくことと、どこか似ている。

テトラポットに守られた浜を歩きながら、高校生の頃に見た「猿の惑星」のラストシーンを思い出した。

0702wave01.jpg


≪ 巴川の枝垂れ梅 | きょうの清水 | 昇太の清水青春グラフィティ ≫

「折戸の海岸」へ届いたコメント

昔の海岸を知っていると、今の姿には驚きます。
清水もいろいろな景色が変化していますが、三保半島の海岸浸食と第二東名の工事による山間部の景色の変化は、横綱クラスかもしれません。

40年前の数年、その海岸で本を枕に富士を眺めながら昼寝を楽しみましたが、・・面影が無さそうですね。

折戸海岸のテトラポットを初めて見たときは驚きましたが、この頃は慣れました。八号館というのは、グランド横にある螺旋階段の校舎でしょうか。

東海一高と東海工業高が合併して翔洋高校に、東海中学も翔洋中となって折戸に移りました。大学のグランドは中学野球部も使うようになって、改修され水はけが素晴らしくなりました。

ちょうど二十年前、私は東海大学海洋学部の生徒でした。下校時にはよく八号館の脇に延びる遊歩道を自転車で帰ったものです。今思うと、そういえば砂浜の向こうにテトラポットがあったなぁと、おぼろげながら思い出しました。ショックだったのは、今年の三月、久しぶりに羽衣の松を観光した時に見た、八号館があるであろう場所の砂浜でした。そこにはなんと、あったはずの砂浜はなく、そのかわりにテトラポットが積み重ねてあったのです。何か新しく開発でもしているのか?と思っていましたが、こういう理由があったのですね。

春の海は独特の雰囲気があって好きです。桜が満開の頃は風が強くて波しぶきが立つことが多いのですが、それでも冬と違って、のんびりした気分を感じます。清水の花見で、海は欠かせません。

大沢川の桜から こんなところに来てしまいました。去年 友人と大沢川の桜の後まさにここ折戸の海岸に来ました。南高の門のそばの桜が満開でした。懐かしさでつい書き込んでしまい失礼いたしました。

コメント投稿

Google検索

Copyright Isoya Shinji All rights reserved.  RSS2.0