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2007年12月03日 次郎長

次郎長フォーラム

次郎長フォーラム

開場は1時だが、その前から大勢の聴衆がロビーに集まり、受付を開始した時には長い列が出来ていた。

清水の次郎長の百回忌となる平成4年(1992)に結成された「次郎長翁を知る会」の15周年を記念する「次郎長フォーラム」が12月3日、清水テルサで開かれた。朝からの冷たい雨にもかかわらず約500名の参加者で埋まった。

「いま次郎長を問う」と題されたフォーラムは、第1部で演歌歌手稲葉永子さんが歌う「花の次郎長三人衆」に続いて、宝井馬琴師匠の講談「鉄舟と次郎長」が披露された。

講談は釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机を張り扇で叩きながら演じるのだが、パシッという音が響くたびに聞き手の緊張感が高まる。会場の音響装置には瞬間的な大音量から機材を守るためにリミッターがセットされているせいだろうか、張り扇を叩いた直後、ほんの一瞬だがマイクの感度が下がるのが判る。テレビでは体験できない感覚だ。

宝井馬琴師匠の講談「鉄舟と次郎長」

フォーラムの前日、グランシップで「宝井馬琴の家族でたのしむ講談教室」が開れた。

第2部のパネルディスカッションはパネラーの顔ぶれが豪華だ。

歴史学者の小和田哲男氏、興津出身で講談協会会長の宝井馬琴氏、次郎長翁を知る会会長で江尻出身の竹内宏氏、小学校から高校まで清水で過ごした作家の村松友み(示見)氏、NHKで放送された時代劇「次郎長背負い富士」の原作者である山本一力氏。


司会者から出された、次郎長の生涯のなかで一番印象に残ることがらという問いかけに、小和田氏は「山田長政顕彰」と答えた。明治25年(1892)山田長政顕彰碑建立のため駿府城内で相撲興行をおこなったことは、開国後の明治時代が国際化に向けて進んでいることを見据えていたからではないかと、先覚者としての次郎長を称えた。

宝井馬琴氏は、次郎長の後半生を決定的にした「咸臨丸事件での鉄舟と次郎長」と答えた。次郎長が没後百年を過ぎてなを慕われるのは、壮士の墓に至る山岡鉄舟との出逢いが大きかった。師匠の弁舌に会場から何度も拍手が送られた。

小和田哲男氏と宝井馬琴氏

静大教授で歴史学者の小和田哲男氏は昭和19年生まれの静岡市出身。宝井馬琴氏は昭和10年生まれの興津出身。

竹内宏氏は「石油」と答えた。次郎長は明治7年(1874)に山岡鉄舟の義弟が行った相良油田の開発に協力している。幕府に開国を迫った黒船は、捕鯨のための燃料となる薪や水の補給が一番の理由だが、アメリカでの油田開発の進展のなかでエネルギー革命がくることを見通していたのでは、と語った。次郎長の先見性を語るエピソードとして興味深く聞いた。

竹内宏氏と村松友み(示見)氏

経済評論家の竹内宏氏は、清水銀座の大踏切り近くの竹内内科医院の三男坊。直木賞作家の村松友み(示見)氏の「み」は示+見だが、パソコンのフォントに無い文字なので、ひらがな表記にした。

小学校から高校まで清水で過ごし、清水出身を自慢する村松友み(示見)氏は、「サイコロ」と答えている。次郎長の時代の流れを読む早さ、行動の俊敏さは、見えないものを掴み取るセンスの良さであり、それは壺のなかのサイコロの目を読む能力に繋がるというのだ。作家ならではの発言に会場が沸いた。

山本一力氏の答えは「浜松行き」だった。中村雅俊が次郎長を演じたNHK時代劇でも演じられた、米相場で儲けた金を持って清水に帰ってきた話である。借りた物は返すという筋を通した生き方、相場を見抜く眼力が幕末から明治という混乱期のなかで頭角を現す力となったと、自説を披露した。

村松友み(示見)氏と山本一力氏

山本一力氏の本が原作となったNHKドラマ「次郎長背負い富士」は静岡だけでなく関東でも好評だったという。

フォーラムは開始から2時間、予定通り4時30分で終わった。雄弁なパネラーの発言を巧みに裁き、予定通りに進行させた司会者の秋岡榮子氏にプロの技量を感じる。


会場を出たら、小雨も上がり夕暮れの空が淡い空色になっていた。これまでいろいろなフォーラムに出席したことがあるが、参加者として、これほどまで清々しい気分で会場を出たのは初めてだ。たぶん、主催者、参加者、パネラーを含め全員が次郎長のファンであり、清水という土地に愛着を感じていることから伝わる安心感のようなものだと思う。

「オール清水」の安心感は、郷土意識、仲間意識とも言える。ただ、その連帯感は、時として外部を排除する意識に繋がる。

次郎長のアウトロー時代は清水に居なかったことが多かった。そのことが、清水を外からの視点で客観的に見る素地となり、先を見る力を養ったのだろうという指摘がフォーラムで語られた。清水は港や街道を通じて人や物が集まり、遠方の動きが伝わりやすかったという特性があり、次郎長の先見性が発揮されたという指摘もあった。よそ者を排除するような狭い了見では、次郎長さんに怒られそうだ。

演歌歌手稲葉永子さんが歌う「花の次郎長三人衆」

「花の次郎長三人衆」を生で聞くのは二回目だ。華やかな唄いっぷりに聞き入ってしまう。

外に目を開き、足元を固める。時代の空気を読み、バランス感覚に優れた次郎長への評価は、「今の清水に居てくれたらなあ」という願望の裏返しかもしれない。そんなことを考えながら、次郎長翁を知る会の入会手続きをしてきた。清水にとって、次郎長翁から学ぶことは、まだまだありそうだ。

●次郎長翁を知る会 ≫

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「次郎長フォーラム」へ届いたコメント

 フォーラム、大盛況のようでしたね。私も参加したかったのですが都合でほんの一部しか聞くことができませんでした。内容やパネリストの発言がこのブログで知ることが出来て嬉しいです。
 私にとっての「次郎長の生涯のなかで一番印象に残ることがら」は、馬琴師匠と同じ「咸臨丸事件」での次郎長の「正義」です。
江戸時代の清水は幕府の庇護や恩恵があり幕府贔屓の土地柄から次郎長も咸臨丸の壮士の遺体の回収行動をしたという意見はある。また維新後浜松藩から駿府町差配役となった伏谷如水に次郎長は清水湊の警固役(言わば警察)を任されていたことから密かに指示があったのではという意見もある。確かにそうしたものもあったかもしれないが、大切なのは身体を張った彼の行動なのである。
そしてその後の官軍の尋問に「人の善悪は生きているうちの話し。死ねば皆仏」と答えたという言葉に表されるように、その行動には「勝ち=善、負け=悪(賊)」「強い=善、弱い=悪」では無い次郎長独特の「正義」のモノサシを感じる。訳あって争うことは仕方が無い、しかし死者を葬らずそのままにしておくが人の道といえようか?漁師も生活が成らず困り果てているではないか?
庶民の生活目線に立ち、お上を恐れず人道的行動を起こしたことが文句無く素晴らしかった!
そしてこの行動が機転となって次郎長の運命はあたかも賽の目が転がるように180度転換してゆく。
次郎長の行動に感銘したという山岡鉄舟との出会い。
鉄舟が連れてきた天田五郎(後の愚庵)との出会い。
この運命的な出会いが無ければ、全国的には知られない、裏街道を生きた「東海の大侠客」として一部のマニアしか知りえない人物にすぎなかっただろう。
「咸臨丸の事件」とはそれほどすごい衝撃的な出来事だったと思うのです。

さて、確かにこの二人との出会いにより、五郎の書いた「東海遊侠伝」、それを元本にした神田伯山の講談、それを浪曲にのせて当てた二代目広澤虎造の「次郎長外伝」、映画の「次郎長」シリーズと、「次郎長親分」の知名度はついに全国区になった。
しかしそれは、黒駒の勝蔵一家との「荒神山の決闘」で締めくくるまでの「東海の親分」の虚像である。

侠客時代の次郎長は清水に一家を構えていながらも、東は上州、北は北陸、西は関西、南は讃岐と旅がらす。清水にはほとんど居なかった。
黒駒との争いを治め、ついに東海道を牛耳り、清水にようやく腰をおろそうとしたときに維新を迎えた。
そしてこの「咸臨丸事件」に遭遇するのですが、次郎長の清水に根をおろした生活はここから始まったわけです。
創作ではない「次郎長さん」の人生です。
晩年までの後半生はとにかく地元に貢献しました。その貢献の大きさを代々語り継がれ肌に感じるように知っているからこそわれわれ清水市民にとってはまた格別違った人気と思い入れがあるのだと思います。

世代が代われば「虚像・次郎長親分」のことはどんどん忘れさられてしまうと思いますが、地元で語り継がれる虚像では無い生身の次郎長の生き方は、これからの若い人たちにも語り継いでゆきたいですし、いつまでも愛しき地元を代表する人物として大切にしたいですね。(長文失礼)

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