永世孝享

興津清見寺。写真の中央、一番大きな建物が「大方丈」、その右側の屋根が「大玄関」、左端に見えているのは「仏殿」。仏殿の西側に五百羅漢像がある。
「清見寺」の山号(さんごう)は「巨鼇山」(こごうさん)である。
山号を付けた正式名で呼ばれる代表格は比叡山延暦寺だろう。山号だけで通じるのは節分の豆まきで名高い千葉県の成田山新勝寺。逆に、金龍山浅草寺のように山号を付けない方が判りやすい寺もあり、山号の使われ方はさまざまである。
山号の由来を調べると中国の宋の時代に遡る。宗の太祖は全ての寺院に序列をつけ免許制とした。寺院の影響力を国王の支配下におくためである。その制度は朝鮮を経て日本にも広まった。ただし、日本では寺院の影響力を国家が完全に統制したのは、明治元年(1868)の神仏分離令である。そのため、日本での山号は国家統制という意味が薄れた。屋号と言ったら顰蹙を買うかもしれないが、それに近い感じがする。
江戸時代の初期に造られた庭園。家康は、この庭を愛し、駿府城より虎石、亀石を運んだという。昭和11年に国の名勝指定を受け保護されている。(清見寺略記より)
寺の入口にある門が、寺門ではなく山門と呼ばれるのは、極楽浄土は寺の背後に続く山々にあるからだという。お盆には先祖の霊が近くの山から家に戻ってきて、正月には七福神が船に乗ってやってくる。現世に住む私たちは、それらを暖かく迎え入れるのが日本の習わしだ。荒涼とした大地のなかで産まれ育った異国の宗教とは異なる、日本の風土が生み出した死生観だと思う。

正面に掲げられている琉球王子筆の額。ガラス戸から差し込む西日が床に敷かれている赤い毛氈に反射して全体が赤く見える。
「大方丈」の正面に琉球王子の筆による「永世孝享」の大きな額が掲げられている。清見寺は朝鮮通信史や琉球王子が逗留した寺として名高い。
寺の説明書きには「宜野湾王子 尚容 朝陽書 寛政2年(1790)」と記されている。11代将軍家斉、寛政の改革の時代である。
琉球王国の使者として王子が派遣されることを「江戸上がり」と呼ばれた。
余談になるが、その当時、酒の本場は関西で、江戸に運ばれる灘、伏見の酒を「下りもの」と呼んだ。江戸に運ばれることもない劣悪な酒は「下らない」と呼ばれ、転じて劣悪なものを指す言葉になったという説がある。
「江戸上がり」は幕府への従順を示す道中であった。文化の中心は京、大阪でも権力の中枢は江戸だった。
王子は琉球国王の子である。代々の王には正室、側室の子と何人もの王子がいた。王子は、それぞれに領地を与えられる。「宜野湾王子朝陽」は宜野湾を領地としていた王子の立場を表す名前である。王子は政治に関わることはなく「江戸上がり」のような儀礼を職務としたという。
琉球国からの使節には、琉球国王即位の際に派遣される「謝恩使」と徳川家将軍の世襲を祝って派遣される「慶賀使」があった。「永世孝享」を書いた宜野湾王子は11代将軍徳川家斉の就任を祝う「慶賀使」だった。

王政復古の前年である1867年(慶応3)に建築された書院。奥の左側に明治天皇と大正天皇が座った玉座が保存されている。
1609年(慶長14)薩摩藩主・島津家久は3千余の大軍をもって琉球王国を侵略した。軍事力を持たなかった琉球王国は敗北し、薩摩と幕府に支配されることになった。国防の必要から鎖国政策をとりつつも、中国や朝鮮との貿易の窓口を残しておきたかった幕府と薩摩藩は、王国体制を残しつつ間接統治を行った。薩摩藩は琉球に高額の税金を課し、貿易を通じて莫大な利益をえた。この富が幕末を動かす力となった。
清見寺は、大化の改新の時代から、鎌倉、戦国、江戸時代、そして明治、大正と日本の歴史を刻んできた。そんな名刹が家から車で10分足らずの場所にあることは、幸せなことだと思う。