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2008年01月11日 興津

咸臨丸乗組員殉難碑

咸臨丸殉難碑

清見寺の山門を入ると目の前に咸臨丸乗組員殉難碑がある

今年のNHK大河ドラマ「篤姫」が始まった。一年間続く物語のクライマックスは江戸城明け渡しである。勝海舟と西郷隆盛が会談し無血開城が実現するが、この会談では山岡鉄舟の役割を忘れるわけにはいかない。

薩摩藩討伐を目論んだ幕府軍は鳥羽伏見の戦い(1868)に破れ、徳川慶喜は兵庫から海路、江戸に向った。王政復古の大号令による大政奉還に満足しない薩長は武力による幕府の解体を目指した。有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)を東征軍大総督とし、薩摩、長州、土佐を始め20余の藩兵が江戸へ進軍した。錦の御旗を先頭に進む官軍である。

1868年(慶応4)3月5日に、官軍は駿府城に着き4月8日まで滞在した。そのなかに軍参謀の西郷隆盛がいた。3月9日、勝海舟の意向を受けた山岡鉄舟が、敵中にもかかわらず駿府城の西郷に勝の書状を手渡した。山岡は西郷に無用の衝突を避け、徳川家に寛大な処置をとることを懇願した。

西郷隆盛は江戸へ向い、3月14日に勝海舟との会談に臨んだ。山岡鉄舟が西郷に会った5日後である。江戸城の無血開城は実現したが、敗北に不満を持つ幕臣など3000名が彰義隊を名乗り上野寛永寺に立てこもり抵抗した。彰義隊の敗北で、新政府への反抗勢力は、仙台、会津、庄内など東北地方に移ってゆく。

徳川家は政権を新政府に明け渡し、最後の将軍慶喜は駿府へ移った。徳川慶喜の駿府入城により、170年続いた小島藩は解体され、清水は徳川の領地となった。徳川家は新政府に恭順の意を示すことで命脈を保とうとしていた。

幕府の崩壊で「徳川家の家臣の多くは難民となり、江戸から駿府にむけて流れ」(清水市史)出していた。駿河にやってきた旧幕臣の「難民」は7千人近くいたという。領主となった徳川家は、清水、静岡の民家や寺に住まわせた。これを、清水の人たちは「おとまりさん」と呼んだ。

咸臨丸

鈴藤勇次郎が描いた「咸臨丸」 教科書の挿絵でお馴染みの絵だ

榎本武揚が率いる一団は駿府に流れることを拒み、軍艦で函館に向った。その艦隊のなかに咸臨丸があった。品川から出航した咸臨丸は、銚子沖で台風に遭遇し下田港に避難した。そして、船体修理のため清水湊に向った。

三保本村沖合まで来たとき、官軍方の艦艇から砲撃を受けた。艦上での戦いで多くの旧幕臣が殺され海に投げ棄てられた。ようやく上陸した家臣たちに、領主となった徳川家は「一夜之宿も貸申間敷候」と町民が匿うことを厳しく取り締まった。「徳川家は家系存続のため、旧幕臣が頼るのを断ち切ったのである」(清水市史)

清見寺から日本平を望む

清見寺の五百羅漢像は裏山に沿って置かれている。一番上に登ると日本平まで見渡せる

新政府を恐れ、清水の領主となった徳川家も家臣を見捨てた。誰も手を差し伸べることができなかった時、「死ねば皆仏」と遺体を海から引き上げ、手厚く葬ったのが清水の次郎長である。「壮士の墓」は次郎長の晩年の生き方を決定する出来事となった。

函館の五稜郭で新政府に対する最後の抵抗をした榎本武揚は、その才覚を認められ恩赦から明治政府の海軍副総裁にまでなった。明治19年、清水湊での「壮士」の話を聞き、清見寺に「咸臨丸受難記念碑」を建てた。榎本が書いた「食人之食者、死人之事」は史記の一節で、旧幕臣の忠節を誉めたものという。

咸臨丸乗組員殉難碑が徳川家を祭る東照宮でなく、事件の起こった清水港周辺でもなく、興津の清見寺なのか、少し気になる。

明治という時代、天皇が座る玉座がある清見寺に、徳川家から見捨てられた武士の殉難碑は似合わないと思う。どこかの資料に、榎本武揚の意図が書かれているのだろうか。

次郎長翁を知る会」の年表によれば、1887年(明治20)4月17日、清見寺において咸臨丸乗組員殉難碑の除幕式が行われている。その夜、「末廣」にて関係者の慰労会が行われたという。その翌年、山岡鉄舟が他界した。次郎長は旅姿にて東京谷中の全生庵で行われた葬儀に参列している。

今年の大河ドラマ「篤姫」は次郎長の生涯と重ね合わせながら楽しめそうだ。

●参考資料(次郎長翁を知る会)●
咸臨丸と壮士の墓≫
静岡異才列伝「山岡鉄舟」≫

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「咸臨丸乗組員殉難碑」へ届いたコメント

八さん、資料の紹介ありがとうございます。

咸臨丸殉難碑は清見寺の山門を入ると、一番目立つ場所にあります。明治20年の落成時には、清水港を一望できたと思います。

清見寺の玉座には明治天皇と大正天皇が座られたといいます。この玉座のある書院は、王政復古の前年である1867年(慶応3)に建築されています。

明治新政府の誕生にあわせて玉座が作られたようなものです。新政府の誕生で清水は徳川の領地になりました。

私的な推測ですが、江戸時代に清見寺が果たした役割からすれば、この玉座は徳川慶喜が座ることを想定したような気がします。清見寺には、家康が囚われの身として座った座敷も残されています。

徳川家再興を願ったかどうかは判りませんが、徳川の栄光を祈念する気持ちが咸臨丸殉難碑に込められていたように思えます。だから、清見寺を訪れたすべての人が、最初に見る一番目立つ場所に建立したのではないでしょうか。そんな気がします。

「咸臨丸殉難諸氏記念碑落成報告書」というものが存在するようで、そのことについて書かれた文を紹介いたします。

「記念碑の計画は明治18年から始まり、発起人には榎本武揚、沢太郎左衛門、荒井郁之助ら旧幕臣7名が名を連ねている。健碑の募金には183名が応じ、合計六十二円十二銭が集められた。4月17日、落成式当日は晴天に恵まれ、約100人の参列者ばかりではなく、地元興津や江尻、清水の町民たち数千人が集まり、清見寺の境内には立錐の余地が無いほど賑わった。供養の法要が終わった後、鐘楼上から紅白の投げもちが行われた。(中略)清見寺の法要が終わり、昼食を取った後、参列者の有志一同は人力車に乗り、場所を下清水の梅蔭寺に移した。(中略)墓前の読経が終わり、発起人、幹事、新聞記者など十数名は、次郎長が波止場で営む船宿末廣で慰労会を開く。報告書には「閑話時ヲ移シ清酌数行、宴中長五郎氏ヨリ更ニ数種ノ珍味佳肴ヲ贈レリ、厚く謝シ之ヲ受ク。各自退散セシハ午後十時頃ナリ」とある。」
出典 「清水次郎長と明治維新」平成15年 田口英爾著
     第三章 明治元年の清水港より  

法要が梅蔭寺で行われた理由は、咸臨丸の壮士を埋葬する際次郎長を助け読経をつとめた縁故であり、梅蔭寺は臨済宗であり清見寺の末寺という関係でもある。

明治18年に始まり20年4月17日に落成した碑ですが、本来は咸臨丸殉難者の十七回忌の予定のものが遅れた形で実現したのだそうです。くしくもこの4月17日というのは徳川家康の命日でもあります。
この碑が完成する数日前まで発起人である榎本武揚は満州国にあり、帰国してぎりぎりにこの「食人之食者 死人之事」という『史記』から引用した一文を大書したということです。
「食人之食者(人の食を食むものは 死人之事(人の事に死す)」という文意は、「禄を頂いた主君の為に人は殉じる」いう意であり、この碑文が清水港を向いていることに咸臨丸殉難者に対する榎本らの深い追悼と供養の念をあらためて感じます。
先に投稿した文章で、「最期まで武士としての誇りを持ちながらも「幕府」に殉ずる意思も無い「人間」であったと思う」と書きましたが、自滅意思がなかったとしても結果的に争いの犠牲になった同士達への供養記念の最良の地としてこの古刹が選ばれたのだと思います。

多くの幕臣は、咸臨丸の壮士を埋葬してくれた次郎長に深い感謝をいだいておりその後の親交も深まった。榎本武揚は頼まれて筆をとる人では無かったそうだが、梅蔭寺の次郎長の墓碑には、お蝶さんの頼みを受けて揮毫したそうです。(八)

暮れには大河「新撰組」のダイジェスト版をやってましたね。今年の大河「篤姫」もそうですが、幕末志士を画いたドラマは大好きです。

「受難記念碑」にふさわしいと地として、この清見寺を選んだのが榎本だったのか?誰の提案だったのかということも探りたいですね。
以下は個人的な想いですが、
春山以下咸臨丸の乗員(壮士)は清水に入港し官軍に追い詰められた際彼らには既に抵抗の意思も無く、また最期まで武士としての誇りを持ちながらも「幕府」に殉ずる意思も無い「人間」であったと思います。その無抵抗の人間に、同じ人間である官軍が手を下したということが本来非難されるべきことであったはずです。
「もはや徳川でも官軍でもない。無意味な争いによる犠牲を出してはいけない」
碑の建立当時には榎本は新政府の要人であり、また鉄舟も侍従として明治天皇に仕えてきました。
天皇の王座から、この事件があった港を見下ろせる場所に碑を建てたことに国内安定と恒久的平和への願いが込められているようにも思えるのです。
咸臨丸の壮士が戦死を逃れていたならば、榎本や鉄舟とともに天皇への恭順のもと明治を生きたにちがいありません。彼らを賊軍のまま徳川と眠らせておかなかったのではないでしょうか。

幕末維新に生きた志士たちにはそうした精神がみなぎっている気がします。その爽快さを「篤姫」にも期待して見ています。(八)

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