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2008年02月14日 次郎長

次郎長宅跡

次郎長宅跡の記念碑

次郎長宅跡の記念碑。実際の「末廣」は、ここから50メートル東にあったという。灰色のフェンスはユニクロ・エスパルスドリームプラザ店。

ユニクロ・エスパルスドリームプラザ店の東側に、「次郎長宅跡」の石碑がある。清水港100周年記念碑の直ぐ近くだ。

この石碑が作られたのは、1999年(平成11)である。もともと、昭和30年代から青木倉庫(アオキトランス)の本社前にあったものが、日の出再開発で波止場の様相が一変し、所在地が不明になっていた。それを清水市が復活させた。

次郎長宅跡石碑銘板 ≫
次郎長宅跡石碑裏側 ≫

徳川慶喜が撮影した清水港 

徳川慶喜が撮影した清水波止場(徳川慶朝氏蔵)
「徳川慶喜と明治の静岡写真展 写された明治の静岡」より
(編集・発行 静岡市教育委員会 発刊1998年8月7日)

徳川慶喜はたくさんの写真を残した。そのなかに清水港を撮影したものが2枚ある。上の写真は、その1枚である。撮影は明治20年代後半という。写真の中央左側に見える2階建ての家が次郎長の船宿「末廣」である。

「次郎長翁を知る会」の会報11号12号に、石碑や場所の特定に至る経緯が詳しく書かれている。

徳川慶喜は駿府に隠居した30年間、頻繁に清水を訪れている。身辺警護を担当していた次郎長との親交が深かったという。晩年の元将軍と元侠客、異色の組み合わせである。

水上バスのりば

石碑には、実際の場所が「ここより50メートル東」と記されている。富士山は北東になるので、それを手がかりに歩くと、水上バスのりばに着いた。この辺りに「末廣」があったのだろうか。

次郎長は1893年(明治26)に亡くなるまでの7年間を「末廣」で過ごした。国定忠治など名の知れた侠客は大勢いたが、みな凶刃に倒れ畳の上で天寿を全うしたのは次郎長だけだったという。

明治政府は徳川幕府を滅ぼし、新しい国家を作った。新政府に希望を感じた人たちと、失望を感じた人たちがいた。光があれば、影が生まれる。日本の近代化は士族の反乱と農民一揆のなかで進められた。

しかし、新政府は徴兵制と軍備の近代化で強大な軍事力を持ち、不満を持つ勢力を鎮圧した。1889年(明治22)には大日本帝国憲法が発布され、新政府は国家としての存在を世界に示した。

この時代に、次郎長は晩年を過ごした。

清水港に停泊した海軍の艦船から下士官が「末廣」に泊まった。艦長などの上官は、江尻本陣だったのかもしれない。若き軍人たちは、次郎長の武勇伝を聞いて、どんな感想を持ったのだろうか。軍人だけでなく静坐法の岡田虎二郎のように、次郎長の話を聞きたくて「末廣」にやってきた人たちも少なからずいた。次郎長の魅力もあったが、清水港には人と物を集める強力な吸引力があったのだろう。

毎日新聞日曜版で連載中の小説「斜陽に立つ」は日露戦争が舞台である。作者の古川薫は、山岡鉄舟を「帝は畏敬するほど愛された」と書いている。徳川に仕えた山岡鉄舟が明治天皇を支えた。

勝手な推測かもしれないが、剣客としても知られた鉄舟が、徳川慶喜を見捨てたとは思えない。守りたかった。だから、次郎長に警護をさせた。時代の分岐点は白黒で分けられない。そんな気がする。

マリンパーク

風を避けているのだろうか、カモメが広場に集まっていた。正面の大きな建物が浪漫館、右側が港橋横のキララシティ。名前だけ聞くと分からないが、どちらもマンションである。次郎長の時代、ここから有度山(日本平)がよく見えたはずだ。

●「次郎長宅跡」をALPSLABで見る
35/0/19.417,138/29/49.737

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「次郎長宅跡」へのコメント

訂正;コパカバーナでなくココパームスでした。

日の出付近は本当にガラッと様変わりしてしまいましたよね。
清水でヨットに乗っていたこともあり、あの信号を曲がり臨港線を渡るあたりの風景が思い出されます。
三保に向って左の角に五万石という昭和そのものの洋風レストランがあり、だいぶのちにその息子さん経営のコパカバーナが向え側に出来ました。
線路を渡ってすぐ右側が静岡観光汽船の船着場。
お店もあっておでんや焼きそばも売ってました。
ここのおばちゃんがもうすぐこの前埋め立てちゃうんだってって言ってたのを思い出します。
このあたりの三保に向って左側でしょうか。そういえば夜にコパカバーナに来た際は青木の駐車場に無断駐車してたっけ。。古い倉庫が並んでましたが。。。何かそんな碑があったようなないような。。。

八さんの書かれた通りでして、最初に掲載した写真は大正時代の
ものでしたので、写真を差し替えました。

今、掲載している写真が徳川慶喜撮影によるものです。
慶喜はもう1枚波止場を撮影していますが、それには「末廣」が
写っていません。

「次郎長堤」は、今度じっくり観察してみます。

 ユニクロの東側に古びたトタンの倉庫がありますよね。
あそこが『魚問屋芝栄』の跡地ですから、写真の位置に従うとそのすぐ手前脇の現在空き地に『船宿末廣』があったと推測できます。

 さて古写真についてですが、『末廣』とおぼえし建物の二階側面には、「ヤマキ」という屋号を中心に『港屋』の白い文字が書かれています。
『末廣』は次郎長没後、妻おてふと養女の山本けんが引き継いで経営しましたが、おてふの没後大正8年に売却しています。後の経営者がこの船宿を『港屋』に改名してを経営しました。
徳川慶喜は大正2年没です。したがって古写真が「慶喜撮影」というのはおそらく間違いであります。

もちろん慶喜さんと次郎長の関係には間違いはございません。それは、復元された『末廣』内に展示されている「熨斗目」に総括されているのではないかと思います。

  *  *  *

 古びたトタンの倉庫(芝栄跡)と汽船案内所の間に石垣が少しだけ頭を出していますが、これを地元では次郎長の港着工の跡だとして「次郎長堤」と伝わっています。
機会があったら確認してみてください。

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