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2008年02月21日 次郎長

次郎長堤(1)

赤茶色の古い倉庫が芝栄跡、その左側に次郎長が晩年を過ごした「末廣」があった

友人が船宿末廣の場所について教えてくれた。

ユニクロの東側に古びたトタンの倉庫がありますよね。あそこが『魚問屋芝栄』の跡地ですから、写真の位置に従うとそのすぐ手前脇の現在空き地に『船宿末廣』があったと推測できます。

波止場の信号から海に向い、ユニクロを過ぎると赤茶けた倉庫が見える。周囲が小綺麗になったなかで、そこだけ時間が止っているような建物だ。この場所に「魚問屋芝栄」があった。

【追補】
「末廣」が写っている明治から大正にかけての写真の位置関係で勘違いをしていた。昔の波止場のイメージから、「末廣」は東に向いていると思いこんでいたが、「末廣」は南に面していた。明治から大正にかけての絵葉書に写っている富士山の位置を見ると一目瞭然だ。(指摘してくれた八さんに多謝)

大正時代の写真では「末廣」の正面から右側に「芝栄」が写っている。「末廣」と芝「魚問屋芝栄」は、東西方向に並んでいた。赤茶けた倉庫の西側(ユニクロ側)の空き地に末廣があった。

1998年発行の住宅明細図。浪漫館とベルジュ35はあるが、ドリプラはない

1998年発行の住宅明細図。浪漫館とベルジュ35はあるが、ドリプラはまだ地図に出ていない。清水港郵便局は出ているが、五万石の文字はすでに消え、浪漫館の東側にココパームスが出ている。

1998年の地図で波止場を見ると、清水港郵便局は出ているが、五万石の文字はすでに消え、浪漫館の東側にココパームスが出ている。清水港郵便局があった場所は、朝市が開かれる駐車場の辺りだろうか。

昭和30年代、アオキトランス本社前に次郎長宅跡の石碑はあったものが、本社の移転で撤去され瓦礫のような扱いをされていたものを梅蔭寺に運び込まれた。損傷が激しいため平成11年に新しく石碑が作られ現在に至っている。

古い地図に、現在の石碑の場所を重ねると、アオキトランスの入口になる。もともとあった場所に、新しい石碑が置かれたようだ。

「次郎長堤」

友人は「次郎長堤」のことも教えてくれた。

古びたトタンの倉庫(芝栄跡)と汽船案内所の間に石垣が少しだけ頭を出していますが、これを地元では次郎長の港着工の跡だとして「次郎長堤」と伝わっています。

古い倉庫と遊覧船案内所の間に石垣が境界線のように伸びている。これまで、何度もここを歩いているのだが、気がつかなかった。

たまたま犬を連れ散歩に来ていた人がいたので、堤のことを聞いてみたら、上の写真では堤から先、「遊覧船のりば」と書かれた建物の場所は海だったという。

関東大震災避難者の清水上陸

1980年(昭和55)に発行された「目で見る清水市の歴史」(杉山満著・緑星社出版部発行)から

関東大震災の避難者が清水に上陸する写真がある。中央に「港屋」と書かれた2階建ての建物が見える。関東大震災は大正12年、末廣が次郎長の親族の手を離れ「港屋」と改名したのが大正8年である。

写真の右側に石垣が写っている。現存する「次郎長堤」は、この写真の建物の裏側になると思われる。徳川慶喜が撮影した写真と比べると、家屋の前が広くなっている。埋め立てたのだろう。

芝栄跡から港橋を見る

赤茶けた倉庫の裏にある次郎長堤はペンキに汚れていた。次郎長宅跡の立派な石碑と比べると、悲しくなるような姿だ。この石のひとつひとつに清水港の近代化が刻み込まれている。もっと大切に守ってあげたいと思う。

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「次郎長堤(1)」へのコメント

ペンキの謎が解けました。

石垣を見たときペンキ跡だと思ったのですが、この場所で船底塗料を塗っているとは思えなかったので考え込んでしまいました。

でも、謎が解けてすっきりしました。

この次郎長堤がなぜペンキで汚れているか。。
そうなんですこの倉庫の北側がかつて清水のヨット乗り間では大洋バースと呼ばれていたヨットの係留場所がありました。(大洋なんとかという寒天工場があり寒天くさかった記憶があります。
ヨット乗りたちはこの古びた倉庫のすぐ横に船を上架し、船底塗料の塗り替えをしていました。
そうでしたか。。。古い石積みの堤防だとは思っていましたが、そんな歴史的建造物だとは知らなかった。。。
反省。。

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