次郎長堤(3)

サムシング田中さんから紹介して頂いた、20年前の地図より波止場の部分を切り取った。
今から20年前、昭和40年代の住宅明細図を紹介して頂いた。日の出再開発で埋立てが始まる前の波止場の様子がよく判る。逆コの字型の波止場の一番奥に、観光汽船のりばがあった。夏場だけの運行で伊豆行の汽船が出た。土肥ではなく、松崎だったと思う。子どもの頃の記憶だが、アーケードがあって昼でも少し暗かったような気がする。
地図中央に「天野回漕店港倉庫No.1」とあるのが、現在も残っている赤茶けた倉庫である。その西側、「No.2」と書かれている場所に、船宿「末廣」があった。倉庫は「No.3」まで連なっていた。
「次郎長翁を知る会」の会報11号には、「次郎長宅跡」の石碑が、昭和30年代には青木倉庫(現アオキトランス)の本社前にあったと書かれている。20年前の地図で見ると、踏切りのすぐ横に本社があったことが判る。この辺りに石碑があったのだろう。

「次郎長堤(2)」で紹介した古地図を、20年前の地図と方角を20年前の地図に合わせてみた。上が北になる。

古地図は正確な測量に基づくものとは思えないので、重ねる作業では縮小や拡大したところがある。あくまでイメージとして見て頂きたい。

「第二次改修工事中の清水港(大正13年)」と題された写真
「目で見る清水市の歴史」(杉山満著・緑星社出版部発行・1980年(昭和55)から
徳川家康が駿府に隠居した頃、巴川の河口は現在の稚児橋辺りだったという。入江という地名がそれを示している。宝永地震(1707年)で巴川河口の土砂が隆起し、新しい土地が出現した。巴川が駿河湾へ伸びたのである。新しい土地は向島と呼ばれた。
安政地震(1855年)でも隆起が続き、向島が広がった。新しい土地には網干場や田畑も作られ、風よけの松も植えられた。浜田や松原町という地名の起源である。

歌川(安藤)広重が描いた「駿州清水湊」
歌川(安藤)広重が描いた清水港は巴川の両岸にあった。海側の土地が「向島」である。
河口に広がった港は、隆起や浸食で地形を変えている。地形の変化というと古代のイメージがあったが、清水の地形は江戸中期から幕末にかけて大きく変化している。「篤姫」の時代、清水は社会体制だけでなく地勢も大きく変化した。地勢の変化が社会の変化に深く関わっている。
幸いなことに、清水にはそれらの変化を教えてくれる文書や地図が残っている。ふるさとの歴史を調べる作業は、タイムトラベルのような楽しさがある。
「次郎長堤(3)」へ届いたコメント
清水港湾管理局などが発行している子ども向けの冊子「清水港ってどんなとこ?」を読者の方から教えて頂きました。清水港の歴史や貿易の様子などが分かりやすく紹介されています。
「港の移り変わり」のなかで明治11年に波止場が作られ、「清水港近代化のはじまり」と書かれています。それ以前の港は巴川の河口両岸で、波止場の建設により清水湾に面した港になりました。
次郎長の船宿「末廣」は明治19年ですから、波止場の発展のなかで「末廣」が登場することになったのかもしれません。
いやぁ~、港ってホントにいいもんですね!
磯波 | 2008年03月05日
江戸時代の絵図といえば思い出したことがあります。
オランダのアムステルダムから電車で30分~1時間くらいのところにあるライデンという街をたまたま訪ねたことがあります。
ここのライデン大学は日本研究で有名なところです。
博物館にあった白黒の。。。浮世絵ではなかったと思います。
たぶんリトグラフだったような。。。
まさしく清水の景色が描かれていました。オランダで清水に出くわしびっくりしました。
誰の作かも分かりませんが。。。。何せ20年くらい前の話なものですから。。。。
村松 | 2008年03月04日
「清水港開港100年史(H12年)」の巻頭に、東京国立博物館所蔵の「東海道分間延絵図」その中の、江尻宿及び清水湊、三保の部分を採録したものを見ることが出来ます。
その絵図と土地鑑をミックスして、この「駿州清水湊」を広重が何処から画いたかを自分なりに予測してみると、次郎長通りの北入口から50mほど南進した辺り(F井文具辺り)となりました。絵師になる前の広重は火消しをしていたことから火の見櫓から画いた絵が多いとも聞いておりますので、おそらくそのあたりに火の見櫓のような高い場所があったのかもしれませんね。
この絵の中央には舟から荷お下ろす「小揚げ」とよばれた人足衆が画かれています。どうやら荷は米のようですが、次郎長の養子先の甲田屋もこんな感じで荷揚げしていたのでしょう。そして対岸に見える「向島(現築地町)」の土地に、数年後咸臨丸の壮士が次郎長の手によって葬られるわけです。いろいろ想像が膨らむ絵です。
八 | 2008年03月04日