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2008年03月21日 次郎長

次郎長の葬儀(1)

榎本武揚が揮毫した次郎長の墓碑

梅蔭寺にある榎本武揚が揮毫した次郎長の墓碑

まちの思い出」という本がある。1977年(昭和52)から7年間、「広報しみず」に掲載された記事を清水市総務部広聴広報課が本にしたものだ。

そのなかに「次郎長の葬儀」という一文がある。「広報しみず」に掲載されたのは昭和53年3月15日。思い出を語った方は松井町在住で96歳と記されている。

まちの思い出

 次郎長の葬儀

 十二歳のとき、次郎長さんの葬式を見に行きました。山岡鉄舟や子分衆を先頭に、官軍や旧幕府の人たちの二列に並んだ行列が、次郎長さんが住んでいた波止場から港橋まで長く続いたんです。
 行列は、本町、下清水八幡を通って梅蔭寺へ行ったのですが、そりゃあ立派なもんでした。わしら子供は、花かごからばらまかれる穴あき銭を拾ったんですよ。

 そのころ、清水小学校のところに、幕府の米蔵が四むねと小屋が残っていましてね。バラの垣根がしてあったため、だれも中に入れなかったもんです。キツネがたくさんいたんですよ。
 松井町公園のところは、海だったんですが、その北側に、高さ五尺ぐらいの大きな石燈ろうが立ってました。夜入ってくる船の案内のために、燈しんを油に浸して、明かりをともしていたんです。

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「船宿末廣」があった場所から港橋を望む。次郎長の時代は遠くの山がはっきり見通せたと思う。

次郎長は1868年(明治26)6月12日、74歳で逝去した。浪曲や映画などで知られる侠客の多くは実在したが、その最後は殺害や処刑である。天寿を全うし畳の上で死んだのは次郎長だけだったという。

まちの思い出

山岡鉄舟や子分衆を先頭に、官軍や旧幕府の人たちの二列に並んだ行列が、次郎長さんが住んでいた波止場から港橋まで長く続いたんです。

葬列は、次郎長が晩年を過ごした「船宿末廣」から「港橋」を渡り、「本町」へ向う。 

明治22年に作成された地図

明治22年の地図。海岸や港湾、そして道路の様子が現在と違うことが判る。

今、波止場から梅蔭寺まで行くとすれば、港橋を渡り、実相寺を左に見て直進し、次の信号を左折で柳宮通りに向うだろう。次郎長の時代、柳宮通りはなかった。そればかりか現在ある道路のほとんどが、まだ存在しなかった。田畑や沼地が広がっていたという。

古地図に記された道路と、現代の道路を重ね合わせながら、次郎長の葬列が歩いた道筋を辿ってみよう。(つづく)

港橋

江戸時代、巴川に架かる橋は東海道の稚児橋だけだった。幕末から清水港での物流が盛んになり、港の中心は巴川から大型船が入る波止場となった。波止場と往来するため橋が架けられた。「港橋」は港近くの橋ではなく、港のための橋だった。

「まちの思い出」には山岡鉄舟が葬列の先頭を歩いたと書かれているが、鉄舟はその5年前に死去している。東京で行なわれた葬儀には次郎長も出席した。この時代、鉄舟と次郎長の親交は広く知られており、葬列の先頭を歩いた人物を、当時12歳だった語り部が鉄舟と思いこんだのは、当然のことかもしれない。

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「次郎長の葬儀(1)」へ届いたコメント

 八さん、情報ありがとうございます。 
狐ヶ崎も、御門台も駅の名前だけで、地名じゃない!
今まで全然気づいてませんでした。
もう一回地図を見直して見ます。

中子さんはじめまして。

>狐ヶ崎という地名もやはり、実際に狐が多くいたことに因んでいるのしょうか?

清水の民話に狐の話しはよく出てくるようです。たしか狐ヶ崎駅に近い今泉有東坂あたりの民話にもあったような???
ただし地名としての「狐ヶ崎」は小字名いも無いようで、あそこは昔から上原(うわはら)のようです。
古、狐ヶ崎という地名は旧静岡市谷津山の南端(今の静鉄柚木駅)あたりだったといわれています。
で、なんで上原の狐ヶ崎が狐ヶ崎というようになったかは、草薙スクエアさんの「何じゃこりゃ」であらすじが解説されてます。

http://www.csc.jp/~kusanagi/nanja/nj26.htm

 山岡鉄舟とか、幕府という歴史上での単語が、実体験の上で出てくるというのが、とてもすごいです。
清水にも、狐がいたんですね!ということは、狐ヶ崎という地名もやはり、実際に狐が多くいたことに因んでいるのしょうか?

>「まちの思い出」には山岡鉄舟が葬列の先頭を歩いたと書かれているが、鉄舟はその5年前に死去している。

あっそうか!既に鉄舟は居なかったんですよね。僕もそれには気づかず、先頭を袴姿で扇子を扇ぐ鉄舟をイメージしていました。「次郎長道中」の行列のイメージがどうも重なっているようです(笑)。

「まちの想い出」の語り部の云う「清水小学校のところに、幕府の米蔵が四むねと小屋、、、」というのが松井町公園の北側すぐ近くの民家に移築されて昭和の時代まで残っていたのを覚えています。もっともそのころはピントきませんでしたが、、、。

古地図を片手に「まちの想い出」の語りべの話しを頼りに昔の清水の暮らしやまちの様子を探る時、僕もタイムトラベラーになっています。

う~む、おもしろい!。

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