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2008年03月06日 1 春

清水の広告塔

庵原貯水タンク

水道局が管理する庵原貯水タンクは外周全体に清水の名物が描かれている。

東名高速を東京方面から来て清水インターで降りるとき、この貯水タンクを見るとホッとする。色褪せたとはいえ、広告塔の役割を立派に果たしている。

おぼろげな記憶だが、このタンクに清水の次郎長が描かれている事にクレームがついたと思う。その後、どうなったのかは覚えていないが、今でも描かれているから、一件落着したのだろう。

清水インター料金所の看板

清水インター料金所の看板

清水インターが出来る前の様子を覚えている。袖師中時代の記憶だ。

袖中ではバスケット部に入っていて、練習で山原山をランニングで登ったことが何度かあった。行きは学校から山頂までほとんど休みなしで走り、帰りはハイキング気分でのんびり歩いていた。畑にレンゲの花が咲いていたのを覚えている。

清水インターに来ると、山原山のランニングを思い出す。

真崎海岸に咲いていた梅の花

あちこちで梅や早咲きの桜が咲いている。寒の戻りで少し冷え込んできたが、季節は春である。


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「清水の広告塔」へ届いたコメント

>家々の周囲にある玉石の外構と槙の植栽の組み合わせ

三和酒造の裏手から神明さんにつづく曲がりくねった細い道を「西久保古道」と呼びますが、ここには「原風景」と言えそうな景色が残っていますね。

>三保の過去の地形と現在を見比べてみました。

古地図と重ねる作業は楽しいです。ただ、明治の地図だとぴったりと重ならないので、苦労しますが、これがまた楽しいです。

清水の地形変化については、ただいま準備中でございます。折戸が駒越と離れ、島になっていた時代から現代までの変化を紹介するつもりです。幕末の清水を理解するためにも地理は必須科目ですね。

>トランペット型インターチェンジ

クローバー型とか、少年雑誌なんかで良く取り上げていたような気がします。未来都市が現実の物になってくるような高揚感がありました。それが、今では・・・・ですね。


>出口で市内方面に合流するとき、いつも緊張

以前は料金所を出て左方向にしか出口がありませんでした。西久保に向うには静清バイパスに合流して、歩道橋のある次の信号で右折したいので、3車線分の車線変更をする必要があって勇気がいります。バイパスの通行量が昔と違いますからね。この頃では、料金所から右方向に出て、八坂経由で帰ってきます。この方が楽です。

清水インターも改築されてどのくらいになるでしょうか。以前は取り付け道路の北側のみにで入り口がある構造で、静清バイパスができる前くらいに清水工業高の方に転回路ができたのだと思います。東京住まいで交通量が多いのには慣れっこのはずなのに、出口で市内方面に合流するとき、いつも緊張してしまいます(笑)バイパスができたおかげでその辺りの交通量もかなり増えた気がします。

付け足します。

その際、清水→富士間で、バスガイドさんが「トランペット型インターチェンジ」「これから東京まで延びる」と説明していました。
ワクワクして聞いていました。

東名高速を始めて通ったのは小学校5年か6年生の雪見遠足だったと思います。太郎坊まで行きました。村松さんも一緒でした。それまでの子ども会のバス旅行は蒲原の日本軽金属の鉄管を見ると、遠くまで来たなと感じ、沼津の千本松原のドライブインで休憩していました。現在の移動は新幹線だし道路も良くなり、あっと言う間ですね。

 お邪魔します。
 庵原の貯水タンクは帰省するときいつも見ております。清水に帰ってきたことを実感しますね。
 話題に出ていた鹿島神社ですが、母親が厚生病院に入院している頃、宝町に住む兄の家を経由して神社の前の道をよく利用してました。地図で確認して初めて鹿島神社だと確認しました。
 ところで、次郎長堤のレポートに触発されて、私も実家のある三保の過去の地形と現在を見比べてみました。大正時代の三保半島の地図とグーグルマップとを縮尺をあわせて重ねてみたところ、いろいろと面白いことがわかりました。
 是非、三保特集もお願いいたします。

磯谷さま

いつも思い出話の披露ばかりですみません。
このあたりの風景でついでに言いたいのですが。。

家々の周囲にある玉石の外構と槙の植栽の組み合わせが袖師、庵原の原風景いいますか。。。優しくて、温かみのある光とともに。。ところどころにお茶畑があったり、みかんの木があったり。。。

こんな感じでふるさとを思っています。
また、庵原のあたりは奈良の飛鳥に通じるものをなんとなく感じます。

ちなみに嶺温泉の長男は同級生で嶺の子さんと共に大親友です。

>東名高速の最初の一部開通、静岡ー富士間

1968年です。私が高1の年でした。卒業した先輩の車で由比方面に行き、東名の高架橋を見て驚いたのを鮮明に覚えています。

>実家がお茶屋

昨年でしたか、家を改築されましたね。お店の前のS字になっている道路は、その昔軽便鉄道が庵原まで走っていました。幹線道路だったのですね。

 オフクロの実家が西久保の鹿島神社前にあって、子供の頃は頻繁に、そのあたりを訪れていました。鹿島神社の相撲大会とか秋葉神社のお祭りとかには頻繁によく出かけていました。新静岡から電車に乗って新清水で降り、七夕豪雨で廃線になった電車に乗って西久保で降り、まっすぐ鹿島神社のとこまで歩いていきました。
オフクロの実家がお茶屋なんですが、5月になると生葉を持ち込む人でごった返していました。

 また、イトコに連れられて庵原川の奥に夏休みはセミ取り、冬は魚釣りに行った記憶もあります。村松くんの云う龍雲院も近所に在ってかくれんぼをして遊んだこともあったな。

 東名高速の最初の一部開通、静岡ー富士間だったと思うんだけど
昭和39年の東京オリンピック(新幹線開通)より1年ほど後だとおもったけど、どうなんだろう?。

東名が開通する前は、西久保や袖師から山原まで、平坦な畑が広がっていました。東名高速の開通で袖中のマラソン大会もコースが変わったと思います。

開通前だった私の時代は、学校を出て袖小方面に走り、真如寺の辺りから曲がって、庵原川の堤から砂利山(現在の4区グランド)、嶺温泉の狭い道を走って学校に戻ったと思います。信号がひとつも無いコースです。(その頃は、国道以外に信号はなかったかも)

袖中だけでなく、東高も学校の周辺でマラソン大会ができなくなって、折戸の浜に来ていました。

小学校の低学年の頃の思い出です。

西久保の龍雲院にお墓参りに行った際、祖父が山の方を指差して
あっちが三池平古墳、こっちに神明山、あそこの工事で崩している低い山も古墳があって高速道路の出入り口になるんだ。。。
なんて話してくれたのを思い出します。
きっとそのときは古墳って何??なんて質問したことと思います。
龍雲院の東名側は見渡す限り田んぼでした。
庵原の方の入り口というか、銀杏の木と火の見櫓がよく見通せました。
何とか水軍ってのがこの時代にあって、白村江の戦に出掛けたってことも後に知りました。

私の袖中時代は、インター近くの池でザリガニを釣ってました・・・ちょと恥ずかしい記憶。

高校生の頃は、夕方になると自転車でインターまで行って、自動車の灯りを見るのが癖でした。我ながら変な趣味だとは思うのですが。

今は近所に名神高速道路が走っているので、時々自動車の灯りを見ながら、あちらが清水インターと無意味に確認しています。

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