次郎長の葬儀(2)

次郎長の時代の風情を今に伝える廻船問屋鈴木家の屋敷と土蔵。
江崎惇著「誰も書かなかった清水次郎長」(スポニチ出版・1979年)によれば、雨のなか畑仕事をした次郎長は大熱を発し、40日余り床に伏した。そして、1893年(明治26)6月12日の明け方危篤となり、畳の上で大往生を遂げた。
葬儀は6月15日に行なわれた。葬儀の仕切りは「当目の岩吉」だった。
当目の岩吉こと久保山岩吉の名前は美濃輪稲荷の石柵に刻まれている。当目の岩吉の墓は焼津にあることもあって、1965年~68年までテレビで放映された「素浪人・月影兵庫」で品川隆二が演じた「焼津の半次」のモデルという説がある。
この当時、3日後の葬儀は珍しかったという。遠方の縁者に葬儀の知らせを伝えるためかもしれないと江崎惇氏は推測している。
波止場の「船宿末廣」を出発した次郎長の葬列は「港橋」わたり、実相寺の角を右に曲がり本町に入る。

本町にはいくつもの廻船問屋があった。清水港を支える企業集団である。そこから、上町、本魚町、袋町など清水八ヶ町の中心として「本町」と名乗るようになったという。
「まちの思い出」に記された古老の話では、本町から下清水八幡を通って梅蔭寺に向っている。明治22年発行の地図から、葬列が歩いたと思われれるルートを推測してみよう。

明治22年測量、同25年国土地理院発刊の2万分の1地図に地名などを加筆した。寺の卍は現在と同じだが、神社の鳥居マークが違っている。美濃輪稲荷の南側に幕府の米蔵が記されている。
港橋を渡り、次郎長通り商店街の入口を過ぎ、実相寺の辺りで道が北側に曲がっている。本町郵便局、石野源七商店を過ぎ、お屋敷の塀沿いに行くと、その先がT字路になっているのは、現在と同じだ。
地図には富士見橋が描かれている。橋の完成は1885年(明治18)。この地図が発行される4年前になる。港橋の次に架けられた

本町には、昔の清水の佇まいが残っている。港を中心に発達した清水の中心という伝統と誇りが守られているのかもしれない。
下の地図は、昭和3年の都市計画図である。大正13年に江尻町など6ヶ町村の合併により誕生した清水市は、港湾の整備と共に近代的な道路建設に着手している。次郎長の時代、港が波止場に移り港橋が架けられたのと同じように、清水港の近代化で大型船が入港するようになり道路整備が急がれたのだろう。
太く着色された計画線は、現在の道路とほぼ同じである。記念塔の5差路も、この計画によるものだということが判る。
よく見ると、鉄道の北側は、計画線以外の道路が、ほぼ現在と同じなのだが、線路の南側は久能街道など江戸時代からの道沿いに人家があり、その回りに田畑が広がっていたことが判る。線路南側の近代化は昭和に入ってからだった。
「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 清水」川崎文昭編・国書刊行会発行 1979年発行(清水中央図書館蔵書)。編者の川崎文昭氏は、清水市史の編纂委員であり、静岡新聞社刊「町名の由来」(1979年)では清水市分を担当している。
都市計画図を拡大してみた。明治22年の地図とほぼ同じ道が描かれている。
次郎長の葬列(2)では、港橋から本町を歩いた。次回は、本町から下清水八幡へと歩いてみる。

地図では本町の表示の左側に◎印がある。清水町役場だったものが清水市役所と看板を変え、昭和6年までここにあった。
「きょうの清水」コメント
私も国土地理院のサイトを探しましたが、明治期の物はありませんでした。
明治22年の地図を一昨年、証紙で支払って買ってきた人がいますので、販売しているのは間違いないと思います。
明治の地図は2万分の1です。サイトのはどれも2万5千分の1なので、リストから外れているのかもしれません。
磯波 | 2008年03月29日
国土地理院のサイト内を歩き回ってみましたが探し方が下手でこのページに掲載された地図の入手方法が見つからないまま夕暮れになりました。
とはいうものの収穫だったのは1966(昭和41)年に撮影された清水市の航空写真が多数閲覧可能だったことです。
■国土変遷アーカイブ 空中写真閲覧システム
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/
清水市で検索すると出てきます。
入江岡から西が未完成状態で寺に突き当たっていた南幹線の様子を確かめることができました。
情報感謝。
六 | 2008年03月29日
以前、国土地理院のウェブサイトから申し込んで
富士山、富士宮登山道の古い地図を年代別に買ったことが
あります。証紙を購入して払った。
また2005年の11月にツインメッセで地図展が開催されて
古い地図も沢山ありました。
ウェブサイトが残っていました。
http://www.jmc.or.jp/event/chizuten05/top.html
サムシング田中 | 2008年03月29日
おはようございます。
次郎長生家裏手の巴川縁に出て河口方向に歩くと三角形の松井町公園があり、今次郎長のようなおやじさん達が大勢パチッパチッと音を立てて青空将棋を指しており、次郎長さんがぶらりと現れてひょいっと駒を取り上げて……(次郎長は将棋が指せたのだろうか)なんてのどかな清水を彷彿として楽しいです。
そのあたりにはかつて三保への渡船乗り場があったと「まちの思い出」に書かれていましたので早速この地図を見たら四角い船着き場のような一角が松井町にあり、改めて気づいたのですが松井町公園はこの船着き場を埋め立ててなめらかにしたことによってできた三角形の公園のようですね。意外な成り立ちでびっくりしました。
こういう地図を眺めていると人それぞれに思いがけない発見があるのでしょうね。
国土地理院での入手法も調べてみますね。
六 | 2008年03月29日
>幻の静鉄三保線
時代からして、近隣住民の利便性より軍需物資の運搬が目的だと思います。昭和初期の都市計画も、港湾とリンクした物流システムの強化でしょうね。まさにロジスティックです。
>東京で入手可能
国土地理院に出向くと、古地図のカラーコピーを販売してくれるそうです。紹介した都市計画図は一部しか掲載されてませんので、西側は不明です。原図は役所が保存していると思いますので、週明けに市役所に問い合せてみます。
>近所の「常念川」
諸般の事情で地名が変えられるみたいですね。西久保も、元々は西窪でした。本町は地名表示では「ほんまち」とフリガナが付けられています。本町だけでなく「○○町」は、みんな「○○まち」です。これも謎です。
磯波 | 2008年03月28日
すみません宴会前の連続投稿です。
「幻の静鉄三保線」
と題して資料を公開して下さっている方がおられます。
http://www4.tokai.or.jp/s.tetudourekisi/shizutetsu/shizutetsu0g.htm
この線とは別に巴川橋を渡る線が途中まで作られていたらしいです。
「幻の静鉄三保線」ルートに桜橋で合流する計画だったのかなぁ。
六 | 2008年03月28日
この地図の左(西)はありませんかね。
というのは江尻停車場前からと軽便波止場前から出ている2本の波線は軽便鉄道延長計画路面電車用道路ではないかしら?
江尻停車場前から出て大曲方向に向かう「停車場前線」ですが巴川橋が完成したときは橋の上に線路までちゃんと用意してあるところまで行っていたそうです。おそらく大曲で桜橋の方に折れて清水環状線にする計画だったと思うのですが、左側の地図があればどんな環状線計画だったのかが正確にわかりますね。
東京で入手可能なら指示して下されば買いに行ってきます。
六 | 2008年03月28日
地図をプリントしてみました。
近所の「常念川」が「浄念川」なっていて、
いつから「浄」なのか、面白くなってきました。
なべ | 2008年03月28日
この地図が掲載されていた「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 清水」川崎文昭編(国書刊行会発行 1979年発行)のオリジナル画像を記事の下にダウンロードできるように付けました。
実際の計画図は清水市全体の、もっと大きな地図で、計画路線も着色されているのかもしれません。よく見ると、計画が中途半端で終わっているもの、実際に作られなかった橋などが判ります。
磯波 | 2008年03月28日
素晴らしい!
次郎長葬儀ルートもさることながら、昭和3年の地図を見ると波止場から新世界飲み屋街を通って現新清水を経て今の軌道に入り巴川を渡って入江岡の手前で東海道線を渡り淡島町から桜橋町櫻珈琲近くを通って追分に抜けていた静鉄の軽便路線がちゃんと描かれてますね。積年の疑問が解消されました。ありがとうございます。
六 | 2008年03月28日