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2008年03月30日 次郎長

次郎長の葬儀(3)

本町から上町へ

上2丁目4-8付近。道路名は「主要地方道清水富士宮線」である。

「まちの思い出」に書かれた次郎長の葬列は、波止場の「船宿末廣」から港橋を渡り、本町へ入った。

明治22年の地図を頼りに、実相寺の入口を曲がり、本町を北に向って歩く。本町郵便局、石野源七商店を過ぎると右手に、お屋敷の塀が続く。道は東西への道とT字に交差している。道路を境にして南側が本町、北側が上2丁目となる。右手(東側)へ進むと、すぐ冨士見橋だ。

次郎長の葬列は、本町から下清水八幡へ向っている。明治22年の地図では、道は本町から左折して、すぐに右折している。

深沢種苗園芸の先に一方通行の標識が見える。ここを右折する。

上町

上2丁目5-14付近

曲がるとすぐ右手に提灯で有名な「びら一商店」がある。少し歩くと、お茶屋さんの「伊藤誉香園」がある。直進すれば、万世町から記念塔につながる広い道路にでる。

「伊藤誉香園」を左折し、西に向うと真正面に下清水八幡の大楠が見える。

「伊藤誉香園」を左折し、西へ向う

上2丁目8-1付近

本町から上町へ歩き、下清水八幡の大楠を、住宅の屋根の上に見たとき大きな木だと思ったが、境内で見上げた時の、圧倒的な存在感はなかった。でも、次郎長の時代、周囲に家があっても、平屋で屋根の高さも低かったと思う。波止場の末廣からも大楠が見えたかもしれない。

下清水八幡神社の大楠

下清水八幡神社は、清水町八ヶ町と下清水の総鎮守として、航海安全の船玉社を祭ってある。

ここまでの道のりを、明治22年の地図上に書いてみた。今では遠回りになる道順だが、次郎長の時代には他に道が無かったことが判る。

次郎長葬儀のルート

明治22年の地図に、次郎長葬列のルートを書き入れてみた。

「ふるさとの思い出」には、「わしら子供は、花かごからばらまかれる穴あき銭を拾ったんですよ」と記されている。現代でも高齢で天命を全うした方の葬儀では五円玉が付けられる。

会葬者は地元の人に加え、明治政府や旧幕府の人たちや、侠客として縁のある人たちが関東、三河など近郷近在から集まり、その数は数千を超え、葬列の先頭が梅蔭寺に着いても、末尾は波止場にいたという。

穴あき銭を蒔きながらの行列は、黒澤明監督が「夢」のなかで描いた、『水車のある村』の葬列のように賑やかだったのかもしれない。


次回は、下清水八幡神社から久能街道へ歩いてみる。

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