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2008年05月30日 辻

無縁さんの碑

無縁さんの碑

平成13年、東海道四百周年を記念し「生き活き」街づくり辻の会が「無縁さんの碑」を建立した。

静鉄バス(ジャストライン)西久保車庫の停留所そばに、さつき通りと旧道との分かれ道がある。旧道は江戸時代からの東海道で、南へ進むと江尻宿に続く。

分かれ道に一本の松がある。ここは江戸時代から昭和19年まで「細井乃松原」と呼ばれた松並木があった場所で、一本の松は、それを示すために植えられた。松の下には説明板や道標が置かれている。

無縁さんの碑

平成14年3月に「生き活き」街づくり辻の会が設置した案内看板が、平成20年5月、石碑に造り替えられた。

【説明文】
辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年、松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察され、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めた。
平成13年、東海道四百周年を記念しこの石碑を建立した。
平成14年3月 「生き活き」街づくり辻の会

5月30日、東海道で行き倒れになった人たちを弔う「無縁さんの碑」の由来を説明する石碑の除幕式があり、石碑製作に尽力した地元の人たちが集まった。

「生き活き」街づくり辻の会代表の杉山満さんは、挨拶のなかで、身近な所にある史跡につけられている説明の大切さを語った。

無縁さんの碑

5月30日、「無縁さんの碑」の説明石碑の除幕式が行なわれた。後方にある松の木は、清水青年会議所が「細井の松原」を後世に伝えるために植えたもの。

東海道をに向う旅人は、江尻宿に入る手前にある、細井の松原で一息入れたという。松林は日陰を作り、風よけにもなっていた。

江戸時代の参勤交代では、大名の6割が東海道を歩いたという。薩摩の篤姫も、この道を駕籠にゆられて江戸に向った。

東海道分間絵図

東海道分間絵図(国立博物館蔵・東京美術が複写製本して販売している)

「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図です。幕府は東海道の他にも、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中の五街道と、それらに付属する街道地図も同時期に作成しています。それらを含めて「五街道分間延絵図」(正式には「五海道其外分間見取延絵図」)と呼んでおり、「東海道分間延絵図」はその一部で、東海道だけで全13巻に及びます。「五街道分間延絵図」作成の命が出されたのは寛政年中(1789~1801)のことで、文化3年(1806)に完成しています。現在、東京国立博物館と逓信博物館に所蔵されています。(横浜国道事務所・東海道ルネッサンスより)

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「きょうの清水」へ届いたコメント

「東海道分間延絵図」江戸時代の街道の様子がガイドマップのように描かれていて、見ているだけで楽しい絵巻です。

絵図に「南光山」と書かれていますが、秋葉山さんの後ろにそびえています。街道を中心に描いていますから、山や川は大胆に省略したり、反対に誇張されてまして、それがまた面白いです。

南光山は、バス停の名前で「南光」が残っているだけで、戦後世代には馴染みが薄いのですね。でも、戦前の世代にとって南光山は思い出深い場所だったようです。

八坂、山原に抜ける道が、南光山と擂鉢山の間にあったといいますから、そのせいかもしれません。

当時を知るたいへん貴重な絵図ですね。

南光山について80歳を越す袖師生まれの女性に尋ねてみたところ、その方が子供の頃南光山はまだあって、鹿島さんのところに入り口があって、馬力(馬車)でも楽に登れるほど傾斜はゆるかったそうです。「南光山を崩した土砂は東燃の埋め立てに使わたんだよ。」とも話していました。

その方が小学校の頃、校長先生が「今度袖師に一億円の企業が来る。ありがたいことです。」と話したそうです。
当時、袖師の学校を出た人や、復員兵もたくさん就職したそうです。
(袖師町誌によれば五千万円?太平洋戦争前だとおもいますが・・・。)

以上正確な取材でなく申し訳ありません。

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