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2009年05月05日 わがまち

清水市民会館

RCサクセション清水公演チケット

1982年のRCサクセション清水公演に一緒に出掛けた3人の友人の1人から、当日のチケットとポスターの画像を送ってもらった。チケットには「清水市民会館」と書かれている。

「清水市民会館」が完成したのは昭和41年(1966)。大ホールという但し書きのような名称は付かない。大ホールしかなかったからだ。この年、興津第一埠頭が完成し、翌年に清水駅前銀座のアーケードが登場する。清水の姿がどんどん変化していった時代だ。

清水市民会館

清水市民会館完成記念式典が昭和41年(1966)開かれた。平成15年2月、静岡市との合併にあたり全戸配布された記念誌「清水市政79年史」より

清水市民会館が「清水市民文化会館大ホール」に変わったのは、中ホールや事務室が完成した昭和53年(1978)からだ。施設の公式ホームページに「開設30周年」という説明が出てくるが、大ホールではなく、中ホールを含めた施設の完成から30年ということだ。

昔を知る世代にとって大ホールは今でも「市民会館」だろう。清開の市営体育館を説明する時に「鈴与記念体育館」と言う方が判りやすい世代がいる。袖師で8月の最終日曜日に開かれる地区体育大会を「町民大会」と呼ぶのと同じだ。記憶のなかに定着した呼び名は、行政の思惑とは別に生き続ける。

「清水文化センター」という名称は、市民文化会館や中央公民館など桜ヶ丘にある施設全体を指している。さらに、大ホールが清水市民会館から清水文化センターに変わったのは静岡市との合併後だ。地名と同じように施設名の歴史を調べると、まちの変化が見えてくる。

桜ヶ丘から市民会館が撤退すると、景観もまた変わる。画像のなかだけでも、自分の記憶とみんなの記憶をシンクロさせる場所を確保しておきたい。

1969年の桜ヶ丘

大ホールが完成したのは、昭和41年(1966)である。写真は大ホール完成から3年後の昭和44年(1969)に撮影されたものだ。写真の中央上が桜橋、左右に川のように見えるのは東海道線と静鉄電車の線路である。桜橋から西側の二本塚踏切から斜めに続く「志みづ道」がはっきり見える。よく見ると線路に沿って南幹線が途中まで出来ているのが判る。中ホールや事務室のある本館の完成は昭和53年(1978)で、この写真には写っていない。大ホールの南側は中央公民館である。清商に隣接して造られた桜ヶ丘公園の樹木の背丈が低い。

1961年の桜ヶ丘
昭和36年(1961)撮影の写真では、大ホールの場所に清商(清水商業高等学校)の校舎があった。校舎をグランドの南側に移転し、その跡地に大ホールを建てたことが判る。写真を比べて見ると、昭和30年代から40年代へのまちの変化を実感する。新幹線、東名高速といった大動脈だけでなく、南幹線など周辺の道路がつぎつぎに造られ、町の景観が一変した。

2004年の桜ヶ丘
GoogleEarthで見る2004年の桜ヶ丘だ。家並みが密集することで「志みづ道」のような狭い道が見づらくなっている。

pdf.gif●清水の歩んできた道 1924~1983 (PDFファイル・701KB)≫

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「清水市民会館」へ届いたコメント

市民会館(私にとってはいつまでも市民会館です)、なくなってしまうんですね。高校時代吹奏楽部だった私にとって、定期演奏会を開いた市民会館は学校以上に思い出深いところです。

>航空写真にラーメンのどんぶり

清水検定の問題に出てきそうですね。
「さくら屋」さんの屋上ラーメンどんぶりは
スパイ衛星ならバッチリ撮れてるかも。

図書館北側の「どんどん亭」は無くなってしまいましたが
安さに釣られて、けっこう行ってました。

鉄工会館のレストラン「アイゼン」では、
もつカレーを小嶋市長が食べたとか。

ただし、これは店のメニューではなくて、
某団体の貸切イベントでの出来事だったようです。

航空写真にラーメンのどんぶりが写ってるー!…と思ったら図書館?でした。

いつも楽しく見させてもらっていまーす。

施設の正式名を、きちんと覚えているひとは
行政の担当者ぐらいかもしれませんね。

各地の70年代以降できたホールに「文化」がついたものが非常に多いのですが、これは文部省の補助金を受ける条件として、文化の文字を入れるよう指導があったからだと言われています。
施設の名称よりも、事業内容の方が重要だと思うのですが(笑)

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