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2011年07月20日 2 夏

7月20日の朝

きょうの清水

江尻船溜まり。マグロ延縄船はよく見るが、カツオ一本釣り船を見ていない。

昨年の7月20日のことだ。大正生まれの父は、5月の連休明け頃から腰痛がひどくなり、週2回出かけていたデイサービスを休むようになった。状態は悪化し、6月に介護用ベッドを入れた。自治会の貸出し用車イスを返し、介護保険を使ったレンタルにした。それまで要介護1だったのが、一気に要介護4に。訪問ヘルパーを頼み、家族とヘルパーでの介護が本格化した。腰の痛みは脊椎のヘルニアが再発したもので、精密検査を受けたら「手術すれば直りますが…」と言われた。若い頃ならいざしらず、85歳に外科手術を選ぶ勇気はなかった。

痛みは座薬で緩和される。食事の時間から逆算して、座薬を入れるタイミングも少しずつ判ってきた。その日も、6時頃ベッドの上で座薬を入れた。7時少し前、薬が効いてきた頃に、ベッドの端に座らせ、車いすへの移乗の準備をはじめた。ベッドの端に二人で座って天候の話などをするのが日課になっていた。

きょうの清水

サトイモの葉に強い西日が当たっていた。

前夜、「お前も無理するな」とねぎらいの声を掛けてくれた。意識がしっかりしてきたような気がした。それを確かめたい気持ちから、父に名前を聞いてみた。しっかりした返事が返ってくる。生年月日、住所、電話番号もすぐに答えられる。回復にむかっていることを確信し、「家族は何人?」と聞いてみた。少しだけ考えて人数を答えた。「家族の名前は言える?」と続けると、同居している家族の名前を淀みなく答えた。

横に座っていた私は、父の正面で中腰になり、顔を近づけ「誰だかわかる?」と聞いてみた。じっと顔を見て「わかんない」という。私の戸惑っている気配が分かったのか「わかんないんだな」と困った顔をしたので、「ご飯にしよう」とその場をとりつくった。

きょうの清水

介護ベッドを入れた時、「青春歌年鑑」の戦前編と戦後編をMP3プレーヤーに入れて、枕元のスピーカーからBGMで聞かせた。戦前編は昭和3年から、戦後編は昭和34年までのヒット歌謡曲を収録している。昭和27年生まれの自分でも、かなりの歌を覚えていることに驚く。昭和34年、まだテレビは家になかった。ラジオで繰り返し流れていたのだろう。

あれから1年。グループホームで暮らす父に面会に行くとスタッフが「息子さんが来ましたよ」と声を掛けてくれる。「おはよう。孝行息子だよ」と笑いながら声を掛けると、目を細めて笑っている。いろいろな人の話から推測すると、どうやら息子は二人いることになっているらしい。

面会に来てくれる息子と、顔を出さない息子の二人だ。真相を探ったところで何も生まれないから、推測するしかないのだが、目の前にいて、あれこれやってくれるのは息子なのだが、息子ではないという解釈は「子どもの世話になっていない」という理屈につながるような気がする。家族だから気兼ねすることはないと思うのだが、世話を掛けている、迷惑になっているという気持ちは負い目でもある。

医学的には認知症状が進んだということかもしれないが、負い目から解放されるための知恵だと思いたい。ふたりの息子を創作することで、負い目から解放されている。浮き世のあれこれを捨てることで、自分を守っているのだ。来年12月に米寿を迎える父の生きる力は、まだまだ萎えていない。息子が何人いてもいいのだ。いなくなってもいいのだ。本人が目を細めて笑っていればいい。それでいいのだ。

きょうの清水

父が撮影した航海中の写真。右に見えるのは三保半島かと思ったが、よく見ると違う。昭和30年代の撮影、場所は不明だ。

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「7月20日の朝」へ届いたコメント

さっそくのアンサー、ありがとう。下田ドック、ワーフラダー。懐かしい名称ですね。親が漁師のせいか、鮪船や鰹船の乗組員とは気が合い、楽しい職場でした。
油層所解体工事の写真を見て、貝島工場が閉鎖されて塚間工場に併合さた当時のことを思いだしました。私は希望して豊橋工場に赴任し、それまでは500トン未満の小さな船を造っていた身が、8万トンタンカーや、六千台積み自動車運搬船などの巨大船を建造することになったのです。
いつか再び、清水に戻って生活したい。それが今の切実な願いであり夢なのです。

清波さん、どうも。
父の写真に甲板が写っている船は、昭和30年代に出光の袖師油槽所に所属していた小型タンカーの光安丸だと思います。
http://iso-ya.com/today/2008/04/post_545.html

第五光安丸(ゴコーアン・255トン)か第六光安丸(ロッコーアン・114トン)どちらかだと思いますが、本人に聞いて確かめるのは無理になりました。もしかしたら黒い船体の白鷹丸(ハクタカ・348トン)かもしれません。

父と母の実家が西伊豆田子でしたので、鰹船の方が馴染みがあります。8月の盆休みに、清水(江尻)から鰹船に乗せてもらって本家へ直行の帰省を何度もしました。岸壁から船に乗るときの板(ワーフラダー)が手すりも無い、ただの板なので、小学生の私は四つん這いになって登ったのを覚えています。甲板で若い船員に遊んでもらっていた時、「おしっこしたい」と言ったら、甲板の隅にある穴を指さして、周りのみんなが笑っていたのは、今でも覚えています。今なら、波しぶきが見える穴にしゃがんで、大でも小でもできる気がします。

私は鮪船と鰹船を建造する造船所の社員でした。父は沿岸漁業の漁師。長兄は外国航路貨物船の船員。次兄は海保職員で巡視船乗り。弟はマグロなどを冷凍保管する会社の社員、と全員が船に関係する職業についていました。
ですから、磯さんの父上が撮られた写真を見て、船の種類や父上の船内での役割に強い好奇心を持ちました。
私の父は、特に寝込むようなこともなく大往生しましたが、晩年は思うように動かない身体にいらだち、不覚の涙を流すことがありました。神のように絶対的な存在だった父親の、そのような姿を見て、私も、こぼれ落ちそうな涙をこらえたものです。
それから、いちおう船の専門家である私にも、写真に写っている船の種類を特定することができませんでした、差し支えなければ教えてください。

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